2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(4)

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戦場体験証言(4)
 山本 晋介 さん 
陸軍/1944(昭和19)年11月20日 現役/中国・北支/歩兵
 
初年兵仲間が自殺 泣きながら肉片を拾い集めた 

 私は大正十四生れの八十四歳です。
昭和十九年十一月二十日、十九歳にて現役兵として独立歩兵第百九十六帯、和歌山歩兵第六十一連隊第九中隊に入営。
約一週間の後、同月二十六日、軍用船にて博多を出発。朝鮮の釜山に上陸。十二月一日北支の石門(現、石家荘)着。石門―太原間の鉄道、石太線の井経に到着。
ただちに初年兵第一期の教育隊にて約三ヶ月昼夜の猛訓練に入る。当地は樹木もない荒涼たる山地原野にて、夜間は狼が出没。零下二十度位に下がる程であり、分遣隊の配備に分哨長以下十七、八名のトーチカ勤務を命ぜられた。
 当面の敵は八路軍及び便衣隊であり、鉄道鉄橋警備であり、日中は討伐、夜間は鉄道巡察、潜伏等、それに衛兵勤務等、全く寝る時間がないような状態が何日も続いた。
このような時に大事件が起きる。私も同じ衛兵勤務。トーチカの望楼にて夜間立哨中、同年兵某が連日寝不足と疲れにより、小銃を足もとに立てかけ、居眠りして、たまたま巡察中の古参兵が小銃を取り上げ衛兵所に来た。
その瞬間、望楼上で爆発があり、望楼上に駆け上がると一面に肉片が飛び散り、目を覆いました。手榴弾を腹に当てた自決であり、前途を悲観したものと断定された。泣きながら戦友の肉片を拾い集めたことを今も鮮明に覚えて居ります。
 この頃より便衣隊等による状況の悪化が激しくなり、特に夜間襲撃が多くなり、他分隊のトーチカが敵の夜襲にて全滅。救援に駆けつけるも間に合わず泣きながら引上げた事もあり、この頃より大隊討伐等たびたびあり、二十キロ三十キロメートルの日夜の行軍が普通でありました。
 八路軍との接近戦闘もしばしばあり、四、五十メートル位の距離における射撃戦はもちろんの事、手榴弾の投げ合い等、最後必ず付け剣による突撃に前へとの号令にて、真先に飛び出すのは我々初年兵であったと記憶しております。
それまで擲弾筒を何発か轟音のもとに発射すれば八路軍はたいてい薬莢をいっぱい残し退却することが多く、我々が常に戦闘に敗れることがないと信じていました。
 八月十五日、日本軍が降伏したとの報になぜ?とまったく理解できなかった。
八月十五日の終戦後も我々は武装解除される事はなく、八路軍等との戦闘が続き、討伐も続き、お名前を忘れましたが、中隊長が戦死された事は忘れません。
終戦後も八路軍と局部的な戦闘が繰り返され、また真夏の暑さとの戦いであったことを今でも忘れることがありません。
 昭和二十一年三月頃から何回か米軍の港湾使役があり、五月四日に佐世保に上陸、除隊。
posted by サゲ at 23:10| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(3)

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戦場体験証言(3) 佐藤 貞 さん 
陸軍/1944(昭和19)年4月 応召/中国・中支/通信兵(無通手)
 
中国 苦力(クーリー)狩り、返してと泣き叫ぶ妻子を追い払う

 
拉致連行された苦力(クーリー) 
 私は昭和十九年から二十年にかけて中国の中支、南支で強制拉致した苦力に食料や炊事道具を運ばせて行軍しました。
天秤がたわむほどの重い荷を担がされた苦力は、連日の強行軍に履物も擦り切れて裸足の者もいました。苦力は捕まった時のままの姿ですから、別の履物を探すことも出来なかったのです。
 苦力をどうやって捕まえるのでしょうか。
 物資挑発で部落を急襲した時、捕まえた男達に荷物を担がせて人間共々、徴発してしまうのです。
 またある町を出発する前の夜に班長が四、五名の苦力を何処からか連れてきました。
 恐らく警備隊などが浮浪者狩りをして捕まえた男達を各隊に配分したものでしょう。
 床屋、学生、農民などのみんな普通の良民でした。
 翌朝、出発の時、兵のカーキ色と苦力の黒色とが半々の長い隊列に延びていました。
 拉致された苦力の家族が泣き叫んで何処までもついて来ましたが、最後にはいなくなりました。纏足の老婆の哀願する声が哀れでした。
 進むにつれて道端に苦力の死骸が転々と転がっているようになりました。力尽きた苦力の末路だそうです。
 小休止していた私らの脇を大勢の苦力を連れた、よその部隊が通過したことがあります。
 その時、一人の苦力が射殺されるのを見ました。帰してくれとしきりに哀願していたようでした。「よし帰れ」と言われたのか、喜んで十メートルほど行きましたが、後ろから撃たれて川原に倒れました。外の苦力への見せしめに殺したのでしょう。
 また夜行軍中、松明をかかげた異様な苦力の行列を見たことがあります。
 天秤がきしむほどの、何かの砲弾を下げた屈強な苦力達でした。首から首、そして天秤にまで逃げられないように細引きが掛けられていました。衣服には赤や青の識別用の布切れが縫いつけてありました。
 彼らの同胞に撃ち込まれるかもしれない弾を苦力達は運ばされていたのです。 ある町にしばらく逗留することになって不要になった苦力達を解放したことがあります。少しばかりの塩をもらって「謝々謝々」と帰りましたが、あの遠い故郷まで無事に帰るはずはありません。
また苦力は日本軍の協力者として、同胞からも迫害されると聞きましたが、嘘であることを祈るばかりです。
posted by サゲ at 23:06| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(2)

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戦場体験証言(2)
 児玉 利彦 さん 
陸軍/1943(昭和17)年10月3日 教育召集/歩兵(狙撃)/中国・満州
 
24時間召集 赤紙から一日での入営、母は一夜で千人針を作った

二十四時間召集
 児玉と申します。亡き戦友も含め二百数十万の英霊、また数十万の民間の犠牲になられた方々に心から哀悼の意を伝えると共に、自分が今日こうして元気にしていられる事に何か申し訳なく思いますが、戦争という実態を語り続けるのも、せめてもの供養と思い、話下手を承知で壇上に向かいました。
 御先祖の守護かと思うのですが、私はすべて運が良く、昭和十六年の徴兵検査では身長百七十二センチ、体重五十四キロ、内臓はどこも悪くないのに体重不足という理由で、歩兵第二乙種予備兵となりました。
甲種か第一乙でしたら現役兵で、どうなっていたかわかりません。
 翌昭和十七年六月、教育召集で郡山の東部第六十六部隊、正式名は若松編成の歩兵第百二十九連隊に入隊。三ヶ月経てば臨時召集でそのままというのが定番と覚悟していたのが、三ヶ月で除隊。
 戦後何十年か後、戦友会で、私が教育召集で入隊する数日前の中隊はアッツ島に行き、私が除隊した数日後に編成された隊は、そのままビルマ戦線に行ったそうです。そのとき聞いた話ですが、東部六十六部隊は、現役の初年兵と教育兵を一緒に訓練する部隊だったということです。
 私は内閣直属の中央航空研究所で航空機の翼の研究をしていましたが、戦局は日に日に悪く、研究所員にも召集令が次々に来るようになりました。
昭和十九年六月十五日、友人の召集歓送会を終えて、夜九時半ころ帰宅。
赤紙配達員の知人の在郷軍人が、「おめでとうございます」と赤紙を渡しました。
ついに来たかと開いて見ると、入隊が六月十七日朝八時三十分、三宿の十六部隊へ入れ、とあります。
これにはあわてましたね。いわゆる二十四時間召集です。
翌十六日は、一日で職場はもちろん、隣近所、私物も全部片付けるわけです。頭も坊主狩り。当時の隣組組織は本当によくまとまっていて、幟も襷も用意してくれ、歓送会も開いてくれました。
十七日入隊。そうして何と翌十八日、日本中学の校庭で家族との面会日です。一夜で千人針を作った母。重箱のおはぎのうまかったこと。部隊に戻り、翌日、白帯で巻いた九九式短小銃と刃引きした帯剣を渡され、三々五々、一般電車で品川駅に集合せよという。
 二十一日に博多から釜山で。二十五日、山海関を通過。六月二十七日に南京の浦口に着き、南京の光華門近くに一週間いた。
前線補充隊を運良く避けられ、第二船舶輸送司令部漢口支部に転属。昼間だけの航行で五日かかって岳州に着き、ここに駐屯。
湘潭(しょうたん)へ船舶(ジャンク船など)を使って軍需品の輸送です。幾多の危ない小競り合いもありますが、話はつきません。
ただ二十四時間召集ということがあったというお話をするだけになりました。
 
posted by サゲ at 23:01| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(1)

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戦場体験証言(1)
 
室井 幸吉 さん
陸軍/1938年(昭和13年) 現役/輜重兵、工兵船舶兵/北支、南方
 
日中戦争参加 95歳兵士は弾が尽きても戦って死に、敵討ちと部落を掃討した

 
 戦争!それは一口で語り尽くせるものでありません。戦争を憎しむ心は従軍中を含め、現在も変わっておらず、益々その心境は増加するばかりです。
北支山東省の最前線、15名ぐらいの分隊単位で警備隊が居りました。一番近くの中隊からも、小隊からも、20キロ近く離れていた。
300名以上の敵襲を受け苦戦の無電に、我が自動車隊に救援命令。
歩兵30名を乗せ急行。到着!!無残なり、分隊は全滅。
小銃など兵器既になく、
空の薬莢がうず高く未だに熱く積もるばかり。
その側に血にまみれた兵士の姿。敵討ちと歩兵部隊は前進。
30分後、敵影なしと帰隊。その帰隊した兵士らが分隊近くの部落を徹底に掃討と称し、民家を荒らす。金目の物は個人で徴発。部落民は自国兵が来ても日本軍の掃討戦にも、めぼしい物はなし。彼等が帰宅した暁、我が家をどう見るのか。
日本軍も前線の兵は、こうして救援もなく戦死していった。
彼らは俘虜となる自由も与えられず、戦陣訓という厳しい掟に縛られ、弾丸が尽きても戦って死んだ。
掟を作った東条らは生き永らえて絞首刑となったが、戦陣訓という掟に兵を縛り、死においやった罪は免れることは出来ない。
掟によって止むを得ず死んだ兵士らと彼は靖国に葬られており、それを参拝する議員達。それらを総称して日本の右翼と云うのだろうか。
posted by サゲ at 22:53| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月27日

蔵書引取りin千葉

サゲハシです。
本日はノモンハンからの従軍経験のある元兵士の方の蔵書引取りのため千葉に行ってまいりました。
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らに見守られ、小1時間位で蔵書引き取りは無事完了いたしました。

しかし、急いで搬出をしたので、途中のSAにて蔵書確認をしたところ、かなり貴重な体験を集めた本や、一般流通していない貴重な本、絶版したかであろう書籍が多々あり、驚き感動しました。
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まだ、未整理の資料があるとのことですので、後日改めてと取材させていただきたいと思います。
posted by サゲ at 21:51| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

特攻ライブラリー第6回取材

本日、特攻慰霊平和祈念協会の特攻ライブラリー取材第6回取材に同行して参りました。
この方は去年保存会の取材をしていたので今回は一観覧者として見学させていただきましたが、初めて聞くエピソードもいくつかあり、参加させていただいて良かったです。
以下は今回の聞き手でもあったインタビュアー(語らずに死ねるか!の監督)による去年の取材報告です。去年報告しておりませんでしたので、改めてご報告致します。

海老澤 善佐雄(えびさわ いさお)さん

海軍特攻伏龍隊会長代行事務局長
海軍全国十四徴会副会長事務局長
財団法人水交会会員


取材日:2008年10月19日(日)
取材場所:東京都世田谷区 海老澤さん自宅

経歴
1918(大正7)年 東京都世田谷区出身。
1937(昭和12)年、商業高校卒業後、三越新宿支店に入社。
1939(昭和14)年1月、徴兵で横須賀海兵団に現役入隊。
同年5月、三等水兵。駆逐艦「春雨」勤務。
1940(昭和15)年5月、上等水兵。秋の海軍大演習において成績優秀と評価され、連合艦隊司令長官(山本五十六大将)の名前で表彰される。
1941(昭和16)、海軍省で陸上勤務の後、海軍機雷学校の普通科練習生(S16水雷学校から独立分離し開校。潜水、機雷敷設、対潜防御などを専門分野とする)として久里浜に
勤務。同年7月から水上機母艦(飛行艇母艦)「秋津洲」の艤装員も兼ねる。
1942(昭和17)4月、「秋津洲」就役と同時に南方戦線に従事。
同年9月、海軍機雷学校高等練習生として内地帰還。その後、海軍対潜学校を経て教員となる。
1944(昭和19)、結婚。同年11月、上等兵曹。
1945(昭和20)年5月5日、対潜学校解体。第51戦隊編制。横須賀防備隊51分隊(教育隊)の教員となる。
1945(昭和20)年6月、対潜学校教員の肩書きのまま伏龍隊に入隊。伏龍隊専任下士官。
1945(昭和20)年8月、久里浜で終戦を迎える。
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2009年09月23日

極秘会議in神谷Bar

お初ブログ投稿のサゲハシです。
シルバーウィーク最終日、神谷バーにて今後の展開についての極秘会議を行いました。
映像編集、取材、データベース作りに関して論議が飛び交いました。
結論は出ませんでしたが、電気ブランは大変美味しゅうございました。
今度は事務所近くの斉藤酒場にて極秘会議を希望する所存でございます。

帰宅後、この日記を書き込もうとしたところ、マックユーザーは拒絶されてしまうらしく、仕方がないので赤い彗星(デル)から書き込んでおります。どうにかならんものですかね〜。

※テストを兼ねてますのでご容赦くださいませ。

写真は神谷バーと赤い彗星(年がばれますね‥。)
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posted by サゲ at 20:12| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い

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2009/9/17(木)午後1時〜 日比谷公会堂
■ あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い・第3回 ■
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◆◆戦場の事実を、語り継ぎ記録する「老若」の集い◆◆
   「こんな歴史が消えてしまってよいか?!」
全国から、旧日本軍元兵士ら18名(最年長95歳)
米国からのゲスト、イラク帰還米兵2名(27歳)
ただ戦場の事実を語り継ぎ、記録する。
みなさまの参加をお願いします!

【日時】 9月17日(木) 1時〜3時半(正午開場)
【場所】 日比谷公会堂
 東京メトロ 丸の内線 「霞ヶ関駅」下車 B2出口徒歩約5分
        日比谷線又は千代田線 「日比谷駅」下車 A14出口徒歩約3分
        日比谷線 「霞ヶ関駅」下車 A5出口徒歩約6分
        千代田線 「霞ヶ関駅」下車 C4出口徒歩約3分
 都営地下鉄 三田線 「内幸町駅」下車 A7出口徒歩約2分
 JR 山手線・京浜東北線 「有楽町駅」「新橋駅」下車 徒歩約15分
【入場】 無料

当日の登壇者
 ● 旧日本軍兵士・看護婦 18名 (最高齢95歳)
 ● イラク帰還米兵 2名 (27歳、米国からのゲスト)
 ● 記録に取り組む若者世代 6名

《【語らずに死ねるか】》
95歳 日中戦争参加 見渡すかぎり自軍の屍、敵討ちで部落を掃討
88歳 24時間召集 赤紙から一日で入営。身辺すべてを片付ける
88歳 中国 苦力(クーリー)狩り、返してと泣き叫ぶ家族を追い払う
84歳 初年兵仲間が自殺 泣きながら肉片を拾い集める
89歳 ガダルカナルへ 米軍機240機に追われつ海岸に乗り上げる
88歳 ニューギニア 半年で60キロの体重が36キロに
84歳 レイテ沖海戦 駆逐艦爆発、高圧高温蒸気で死体はろうそくに
83歳 レイテ島 泥田、こんな惨めな死に方は嫌だと言って皆死んだ
86歳 ルソン島 行軍に倒れた水牛の生き血に命を救われる
87歳 硫黄島 戦死者の臓物を被服に貼り付け死体のふり
83歳 沖縄戦 足に迫撃砲弾、弾丸の雨と火炎放射器の下這いずる
82歳 満蒙開拓義勇団 14歳で志願、新天地から迎えに来ると母を説得
83歳 ソ連参戦 即席爆雷を抱いた特攻待機、戦車は一つ向こうの道を行った
84歳 関東軍満州撤退 司令部、憲兵隊は、邦人を残し、8月20日内地上陸
85歳 回天特攻 敗戦、混乱の特攻再開情報で111名が爆死する事故
84歳 シベリア抑留 戦友は飯盒を握り冷たくなっていた
82歳 遺骨収集 私がパンを分けなかった戦友の死が今も胸をえぐる
80歳 昭和33年復員 看護婦、内戦の中国共産党軍・野戦病院へ徴用され13年

【ゲスト】
□ イラク戦争帰還米兵 アダム・コケッシュ (27歳)

《【今年は若者も来るぞ】》
□ 「語らずに死ねるか!」 長尾栄治監督
□ 「花と兵隊」 ビルマ未帰還兵に取材 松林要樹監督
□ 主婦が記録するシベリア抑留 いしとびたま
□ ミンダナオで戦死の父を探して 萩原光子
□ 戦争遺跡写真家 安島太佳由
□ こども達が記録する戦場体験 フリースクール・ドリームフィールド
posted by きぷひす at 20:09| イベント告知 Event | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月15日

移転しました!!

2007.7.1
「戦場体験史料館」設立に伴い
事務所移転しました!

新住所:
〒114-0023
東京都北区滝野川6-82-2
戦場体験放映保存の会

新連絡先:
電話 03−3916−2664
FAX 03−3916−2676
email 
senjyou@notnet.jp(変更なし)


今後の予定: 
戦場体験を記録する「孫」の上映会
     & 戦場体験を語り継ぐ元兵士の証言

2009年8月1日(土) さいたま市民会館うらわ
埼玉チラシ.pdf

  • 映画 
  • 証言
    • 黒田千代吉さん  (84歳、陸軍歩兵・中国)
    • 坂本初枝さん  (80歳、元従軍看護婦)
    • 関利雄さん  (85歳、元隼パイロット)

2009年8月10日(月)〜13日(木) 中野ZERO
中野チラシ.pdf
  • 映画
    • 「語らずに死ねるか」
      (2009年、監督:長尾栄治、製作:潟ニモト)
    • 「戦争の中のこどもたち」
      (1944年、中野区野方国民学校の学童疎開記録映像)
    • 「ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」
      (2009年、監督:いしとびたま)
    • 「冬の兵士〜ファルージャ特別編〜」
      (2009年、監督:田保寿一、イラク帰還米兵の証言)
  • 証言
    • 猪熊得郎さん (80歳、特別幹部候補兵・シベリア抑留)
    • 中島裕さん  (83歳、シベリア抑留)
    • 藤原重人さん (84歳、陸軍歩兵・中国)
    • 安部英夫さん (92歳、2.26制圧・徐州作戦・ノモハン・陸軍中野学校・ボルネオ・昭和21年ゲリラ戦終了)
    • 谷口末廣さん (88歳、陸軍歩兵・ミンダナオ島)
    • 安田誠さん  (86歳、陸軍歩兵・ルソン島)

2009年8月15日(土) 横浜開港記念館
  • 映画 
    • 「語らずに死ねるか」
      (2009年、監督:長尾栄治、製作:潟ニモト)
    • 「冬の兵士〜ファルージャ特別編〜」
      (2009年、監督:田保寿一、イラク帰還米兵の証言)
  • 証言
    • 調整中です
posted by たどころ at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | はじめに about us | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月21日

【緊急告知!】9月28日(日)13時〜 日比谷公会堂

(転送大歓迎)

  

◆◆第2回「あの戦場体験を語り継ぐ集い」◆◆

*********************************

 2008年9月28日(日)

 午後1時〜3時半(12時開場)

 日比谷公会堂 【入場無料】

*********************************

 

63年前の戦場の実相を語るため、北から南から、老兵たちが集まります。

 

■サイパン 全員玉砕の戦地から私だけなぜ還った。(故人・VTR

■ニューギニア 目的の島に着く前に2千人が292人に減ってしまった。

■巡洋艦・愛宕で ミッドウェー海戦、ソロモン海戦、ガ島撤退に連続参加。

■インパール軍医 負傷兵の腕を手術中、我が足を弾が貫く。二人で逃げ惑う。

■ラバウル 駆逐艦で。島に近づく艦船はことごとく被弾。艦橋は跡形も無く。

■ノモンハン 死体置き場で焼却寸前、7日目に生存が発見される。

■シベリア抑留 酷い食糧、最後は自分の糞を食べた。

■ガダルカナル (ガ島戦友会長)上陸から撤退まで全部見た。

■北支・軍医 捕虜を生体解剖、その記憶がまぶたから離れぬ。

■南支・初年兵教育 命令でやむなく捕虜を刺した私。

■中支 命令でも苦力(クーリー)を刺せなかった私。

■中国・最後の初年兵 行き先も知らされず3千`を歩く。

■軍属 船ごと徴用され撃沈された。島へ泳ぐ。

■秘密基地建設中の 強制連行の朝鮮人は、敗戦前夜、全員行方不明。

■硫黄島 地下壕40度を死体と共にいかに生きたか。

■沖縄戦 その空を守る日々、我が機も被弾。炎上の機体から脱出。

■ルソン島 富永司令が逃亡後、飛行兵は歩兵に。蛆虫を喰って生き延びる。

■特攻基地 せめて練習用赤とんぼでない飛行機で行かせてくれの声続く。

■北支 至近距離の八路軍と、相手の投げた手榴弾を投げ返す激戦。

■パレンバンで 「空の神兵」と呼ばれた私がなぜ脱走を決意したか。

■満蒙 15歳の少年兵は『お母さん』と泣いた。

■比島在住 現地召集、収容所で家族5人の惨死を知る。

■パラオ島 (最後に96歳、静岡からの登場)疫病で川に沿って死者ずらり。

 

************

 

私たちは「無色・無償・無名」を固い原則にしています。

全員ボランティア。どんな立場の方も、どんなご意見の方も、

ただ「戦場体験」を掘り起こす一点で手をつなぎ合い、

歴史を正確に記録したいと願っております。

 

お問い合わせ:

戦場体験放映保存の会 senjyou@notnet.jp

150-0047 東京都渋谷区神山町17‐1

TEL 03-3465-6066(火・木・土日祝)

FAX 03-3465-1671

 
posted by たどころ at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント告知 Event | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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