2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(14)

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戦場体験証言(14) 
今村 真 さん 
陸軍/1944(昭和19)年3月1日 志願/満州(新京)/砲兵憲兵

 関東軍満州撤退 司令部、憲兵隊は、邦人を残し、8月20日内地上陸

 短歌一首
  司令部は 家族をさきに送還す残されし邦人 すべて難民
 八月九日深夜、ソ連軍機の奇襲により平和な満州は一挙に戦場となる。
私の所属した関東憲兵隊司令部科学偵諜班は将校・下士官・軍属二百余は、あわただしく出勤、臨戦態勢に入る。
 八月十日、新京憲兵隊より「関東軍司令部、関東憲兵隊関係家族は、引揚のため正午までに新京駅に集合せよとの命令あり。
「目下集合しつつあり」との連絡があった。
「家族は軽装、食糧は三日分の米と副食物、必要な衣類を携行十日正午までに新京駅に集合」・・我が隊の将校、下士官の家族及び女子軍属は、輸送指揮官の指示により午後一時頃より新京駅に集合した。
しかし、この列車は、満鉄側から軍だけが勝手に使用しては困るとの苦情が出て十一日早朝に出発した。
引揚途中、困難はあったが先頭の人達は八月二十日に内地に上陸している。
後日、全満に散在している部隊より、我々の家族を見殺しにしたとの非難があったが、引揚げを指示善処することが出来なかったとは司令部員の言訳である。
 軍内部のイザコザはいざ知らず、全満には百数十万の在留邦人がいた。それらを守るべき総司令部は家族を優先疎開させ、南満の通化に司令部を後退し、前線で闘っていた部隊は指揮系統を失い混乱した。地方にいた
邦人こそ見捨てられて大混乱になり、残留孤児らの悲劇が生じた。
民を守るべき軍が自己の家族を守りたるさま、軍の堕落ここにきわまる。
 さて私の所属した関東憲兵隊科学偵諜班、通称・司令部四班は、昭和十四年八月一日、ノモンハン事件の最中、創立された。
創立の趣旨は敵性諜報・謀略に備え、無線探査と科学捜査、鑑識によって原因を糾明し、あるいは検挙したスパイを培養して敵の企画を諜報し、作戦計画に役立てるなど、その任務は極めて重大であった。
戦争には武力戦と秘密戦がある。武力は一般軍隊が行い、秘密戦は憲兵、特務機関ならびに特殊部隊がその任に当たる。
 満州国は日本の武力によって独立国とはなったが、周辺は四千キロすべてが敵国であり、また三千万満州人も反満抗日分子が多く、隣国の朝鮮民族も金日成らを主体とした排日抗日の活動あり、華北と称する中国との隣接地域には、中国共産党指揮下の八路軍、国民党軍あり、さらに加えてソビエト軍からの諜報謀略あり、スパイと諜報員が四千人はいると推定されていた。
これらの分子との秘密戦は目には見えない重要な、しかし地味な任務であった。
posted by サゲ at 08:49| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(13)

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戦場体験証言(13)
 松倉 一悦 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月 現地招集/輜重兵/北満州・孫呉/シベリア抑留

 ソ連参戦 急造爆雷を抱き特攻待機、戦車は一つ向こうの道を行った

 
 昭和二十年三月、北満・孫呉の輜重部隊に現役入隊しました。入隊後はソ連との開戦に備えて毎日塹壕堀りと敵戦車を破壊し、擱座するための飛込訓練でした。車力を戦車と見立てて必死の訓練でした。
 八月十四日、ソ連軍が黒河方面より侵入の報で、初年兵で斬込隊を編成し、黒河方面へ出撃しましたが、全員部隊に帰隊せず生死不明でした。部隊に残った初年兵は私たち二、三名のみで、飛込特攻要員として志願待機していました。
敵戦車近接の報により、進入しそうな各道路に配備されていました。
 急造爆雷は約四十センチ角の木製の箱で、信管と第二ボタンを紐で結び、腕を伸ばせば瞬時に爆発し、粉微塵となります。飛び込みのタイミングと、キャタピラの下敷きになると同時に腕を伸ばすことが、敵戦車を擱座させ破壊できるのです。
 爆雷を胸に抱き、待機して、ふと空を見上げると空は真青で、生死を超越した澄み切った気持ちで待機していました。ただ、今まで親孝行をしなかったことを心の底より深くお詫びしました。
 近隣の道路で激しい機銃音、爆発音と黒煙が見えましたが、敵戦車はいくら待っても来ず、他の道路に進入したので、部隊に帰るよう連絡があり、直ちに帰隊しました。十五日の夜、重大発表があるから待機の指示があり、終戦となったので自決、逃亡各自の判断に任すということでした。部隊宿営地で疲労困憊の果て寝込み、翌朝目を醒ますと人影もなく、呆然自失でありました。
 ウロウロしていると、召集兵とおぼしき老人兵があちこちから三、四名現れ、みんなどうして良いか判らない状況でした。
協議した結果、ともかく南下しようと決まり、そばの自動車に乗り、興安嶺の山々を乗り越えようとした時、ソ連機と遭遇し、爆撃と機銃掃射を受け、一名が行方不明となりました。
さらに南下すると、小興安嶺の街はずれで道路が爆破され通行困難でありましたので、運転者を除き全員下車し、破壊された場所を避け、車の先頭を縄で結び、土手から落ちないようにゆっくり進行させることとなり、私が先頭になり引っ張りました。
運転者がブレーキとアクセルを踏み違え急発進したため、引っ張っていた縄がたるみ、ひっくり返った私の胸、肩、手の上を通り、私は絶息状態となり、七転八倒し、あまりの苦しみで射殺しようしたところ、何かのはずみで息を吹き返したので、荷台に乗せたと後で言われました。
 更に進行したところ、道路の鉄橋が破壊され通行不能となり、引き返して鉄道の鉄橋を渡って南下することとなり、君を一緒に連れて行くことは無理であるので、この駅に置いていくから最終の迎えの貨物列車が午前二時ころ迎えに来る予定だから、それに乗って北安まで行きなさいと言われ降ろされた。
駅舎の中は無人で、近所の開拓団の家の押入れに隠れ休息していた。
真夜中に汽笛の音がし、急いで貨物列車のところへ行ったが、乗り口が高くて肩が効かない私には乗れないので、満人に頼み乗せてもらった。
あまりのことで直ぐ寝込み、目が覚めると北安に着いており、誰もいなかった。
 北安に着いて二、三日後、ソ連軍が到着し、捕虜となった。収容所は野戦倉庫の敷地で、軍人と開拓団の婦女子でゴッタがえしであった。
 我々軍人は、北安から黒河まで徒歩で逆送され、野宿で寒さと雨と風で多くの兵士が死亡した。
黒河の対岸ブラコエチンスクへ渡り、貨物列車で南下し、エジベストコーガヤ近郊の山林の中の収容所で生活した抑留中は、山林伐採、線路工夫などが主な作業で、ノルマ制は伐採で、身体障害者のためノルマが達成出来ず、食事があまりにも少なく栄養失調となり、昭和二十二年九月、帰国できました。 
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あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(12)

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戦場体験証言(12) 
久保 四郎 さん 
陸軍/1945(昭和20)年5月 志願/歩兵/満蒙開拓青少年義勇軍

 満蒙開拓義勇団 14歳で志願、戦死した中隊長の首を持ち帰る

 
 昭和十六年、大東亜戦争勃発。当時、高等科二年生の十四歳、米英に宣戦布告を聞く。翌年三月卒業、進路選択に母が反対する大陸雄飛に燃えていた私は、新天地に飛行機で迎えに来るからと説得、内原満蒙開拓義勇隊訓練所に入所した。
 渡満まで二ヶ月間、軍事教練と開拓の修業。団体生活に厳しい教育を受ける。五族協和をスロウガンに敦賀より羅津経由で満洲国黒河省嫩江県八洲訓練所に入植し、三年間軍事教練と開拓に精魂を傾け卒業時には全満一の優秀中隊として表彰を受け、現地に第一次八洲開拓団と合同第五次八洲開拓団として入植した。
 訓練中の建物耕作地その他そのまま使用され移行時の困難は皆無で幸先の良い発足でした。
 兵役を控えて同年配なので段階に分け令七志願兵を募り先陣として徴兵より早く帰り開拓に専心するよう方針がきまり、体格の良いもの八十名が志願する。
五月にはそれぞれに令状がきて各部隊出征していった。歩兵で孫呉の一五二〇四部隊に入隊。拓友八名が同じ班に入り、まるで八洲にいた気分で小隊長していたので皆を引っ張り、上司から開拓団を見習えと注目されていた。
 一期の検閲間近に孫呉地区に挺身隊「突撃隊」が編成、派遣された。仲間と別れ一人寂しく旅立った。
 八月九日、突然ソ連軍の参戦に関東軍は右往左往。たった一機の飛行機に翻弄され。司令部は爆撃で破壊され各兵舎も炎に包まれ逃げ惑う兵士には機銃掃射が浴びせられ、タコ壺に逃げ込み難を避ける状態だった。
 そんな事態に突撃隊の出撃命令が出た。大隊長露木大尉の率いる大半の人が、一夜の戦車との遭遇戦に全滅に近い打撃を受け、後退してきた残留組の私たちにも敵の野砲陣を爆破せよとの命令に壮徒に着く。
機関銃一丁だけが重火器、三八式歩兵銃。五キロの爆雷と手榴弾。新兵は木銃の先に銃剣を縛りつけ白兵戦に対処するよう諭され任務につく。相手は三〇連発の自動小銃。前方五〇〇米木立の間を縫うように接近してくる最後の白兵戦になつたら相手も道連れにと臍を噛む。隊長の引き揚げ命令に一目散、戦場を離脱出発時の陣地に戻る。
中隊長は戦死したので首を落として持ち帰る。戦友一名は足に銃弾受け歩行困難におちいり自爆する。
 こうして戦闘は終わり、翌日の八月十八日武装解除があり銃を捨ててソ連の捕虜となり、九月十五日黒竜江を渡りシベリヤに抑留される。ギルタの炭鉱に入り先山・後山の経験もし、二十二年八月舞鶴に帰国。
 こんなみじめな戦争は二度としてはならないと肝に銘じ、戦後の諸氏に訴えるを目的にこの会に入会する。
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2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(11)

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戦場体験証言(11)
 嶺井 巌 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月1日 招集/沖縄駐屯軍 球七〇七二部隊入隊/砲兵 

米戦車隊の火炎放射器の攻撃に合い後方へ転進 頭に迫撃砲を受け即死した母の胸で、乳を求めて泣きわめく乳児。悲惨。

 
 私は現在、東洋一と言われている米軍・嘉手納航空基地からの殺人的爆音被害に、心身を痛めつけられながらの生活を余儀なくされている者の一人でございます。
 私は昭和十七年、沖縄県師範学校に入学。
昭和十九年(満十八歳)の三年生で在学中に、日本帝国軍人の最後の徴兵検査を受けさせられ、甲種合格現役兵のレッテルを張られ、翌年の昭和二十年三月一日、沖縄駐屯軍、球七〇七二部隊に初年兵として入隊。
僅か一ヶ月の初年兵教育を終え、二十二名の初年兵は、四月から分隊に配属され、分隊内務班活動でしごかれ、日夜の陣地構築、壕堀に明け暮れました。
 四月一日、米軍の沖縄本島上陸(中部の北谷、嘉手納海岸から)により戦闘も激しくなり、日本軍は真正面からは戦わず、洞窟陣地に潜んでのモグラ戦術となり、加えて軍司令部はいち早く摩文仁に撤退、多くの住民を巻き込んでの戦闘となり、二十三万余の尊い生命を犠牲にした人類史上の最大悲劇となった。
 五月の中旬となり、私たちの小隊は前線への出勤命令を受け、米軍との接近戦の激しい宜野湾市の高地に到着したものの、米軍の榴弾砲の一斉射撃を受け、住民も自分たちの壕が破壊され、壕を飛び出し逃げ場を失い、バタバタと倒れ、たちまち死骸の山が築かれ、私たち分隊も、その阿修羅の場から一旦別の地点に転進したが、すぐ命令が下り、
「○○小隊は那覇市安里方面の敵戦車隊への肉迫攻撃に突入せよ」
安里へ移動したものの、敵は泊を通り、那覇駅方面へ進行中。直ちに迂回して那覇駅へ。わが小隊も暗闇の中を那覇駅東側へ到着。
敵戦車隊と対峙したが、敵戦車隊の戦車砲撃の一斉射撃に、わが小隊は隊長命令で、具志頭村の中隊本部の駐屯する安里部落に三日後に合流した。
 六月十二日、わが小隊(分隊)は、那覇方面から攻めてきたであろう敵戦車隊に対する監視の任務に着いた。
この日一日中、戦車隊の動きはなかったが、翌十三日は、早朝から米兵は戦車周辺で動き回る活動を始めた。
私たちは、ただ見張りだけの立哨を続行していたが、午前十時頃、十台くらいの戦車から一斉に、機関砲・機関銃の射撃が開始され、わが監視哨はこの敵情を中隊本部に報告。それが終わらぬ中に全戦車が安里部落に向かって進行。
ものすごい爆音と地響きをたてて三十メートルくらい進んだと思うと、ピタリと停止。
次の瞬間、全戦車一斉に火炎放射器から「ボアー、ボアー」と火炎が吹き出し、安里部落の屋敷をメラメラと焼き払った。
その凄まじい攻撃に、わが分隊監視隊員は分隊長の命令一下、部落の反対側へ退がったが、分隊員は散り散りになり、夜になって五、六名が顔を揃えた。
中隊本部からは「この地域の戦闘で生存した者は摩文仁に集結せよ」との指令があったので、集まった六名は摩文仁へ退くことを申し合わせて、暗闇に乗じて出発しようとした途端、迫撃砲の攻撃を喰い、私は左足大腿部に盲管銃創を負い、他の隊員と行動をすることが出来ず、ひとり取り残され、翌朝から足を引きずり、地をはいつくばっての単独行動となり、十日くらいかかって、やっと真壁村にたどり着き、とある製糖小舎の入口に来た。
中は足の踏み場もない、一般住民の負傷した避難民で大混乱。
「いたいよー」「水をくれー」「殺して、苦しい」とわめき声。
私は日本兵でありながら、戦うこともかなわぬ逃亡兵である。肩身の狭い思いをしながら片隅にうずくまった。
夕暮れ時になり、別の部隊に入隊したという初年兵が息せき切って駆け込んできて、
「おいみんな、ここは危ない所だ。歩ける者はほかの場所へ移るんだ!」と言うのも終わらぬ中に、迫撃砲の集中弾を浴び、中の負傷者たちは更に多くの傷を負い、左腕に傷を負って、右手に乳呑児を抱えていた母親が、頭に直撃を受け真赤に血をタラタラ流して倒れてしまった。
とっさの出来事にその乳呑児は、母親が即死したのも知らず、「ギャー、ギャー」と泣き喚きながら、胸から顔をあたりに母親の血のりを受けて乳を求めて動いている悲惨な情景は、地獄そのものだ。
どれ位の時がたったか、あの初年兵に急き立てられ、二人で百メートルくらい離れた民家の庭の避難壕へ入った途端、迫撃砲弾によって製糖小舎は爆破、焼き払われた。中にいた動けなかった避難民はどうした?あの真赤な血のりを浴びて泣き喚いていた乳呑児は?その安否を気遣わずにはいられなかった。
 翌六月二十六日の朝、初年兵二人は捕虜となり、歩兵に誘導され、奇しくも昨晩焼き払われた製糖小舎の側を通りかかった。黒焦げになった焼け跡には、傷つき動けなかった人々の無残な焼け焦げた姿が横たわっていた。
もしや、あの血みどろになっていた乳呑児の姿は?と見回せど、その姿はもうどこにも見当たらない。ただ焼け跡の灰燼の中から、うすゆらぎ立ちのぼる煙は、犠牲になった人々の冥福を祈るために手向けられた香の如く思えて、思わず合掌した。
 この手記を書いている手もふるえ胸がしめつけられる。
日本全国の皆さま、真の日本国の平和を愛する皆さま、二度とこのような悲劇が起こらないよう生存者の私たちは固く心に誓い、犠牲になった多くの国民の御霊のご冥福をお祈りし、今の「世界の誇るべき平和憲法」を守り抜くことをお誓い申し上げまして、私の報告といたします。 
posted by サゲ at 23:41| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(10)

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戦場体験証言(10)
 大曲 覚 さん 
海軍/1943(昭和18)年10月1日 飛行機整備科・海軍予備学生/硫黄島 

硫黄島 戦死者の臓物を被服に付け死体のふり

 
 太平洋戦争中、戦略の要点であった海洋の島々は「不沈空母」と呼ばれていた。硫黄島はこの名に最もふさわしい島であった。
東西幅の広い所で4キロ、南北8キロ、周囲17・8キロ、これは箱根の芦ノ湖と同じで、真青な海上にポツンと浮かぶ姿はまさに白波を蹴って走る「不沈空母」と呼ばれ、日米双方にとって最も重要な島であった。
 米軍はこの小島に上陸前三日間、三百の艦船から三十分間に八千発の射撃と数千トンの空爆、夜は昼間のように明るく証明弾を何千発と打ち上げ万全の警戒体制をとった。
島がゆれにゆれ、あまりの凄さに島を占領するのではなく、島ごと海中に沈めにきたのかと思った。この戦場で最も悲惨で人間性を無視したのは、戦車への肉薄
攻撃であった。
 三月八日、海軍側の総攻撃で道に迷い、西戦車連隊の本部壕に紛れ込んでしまった。
その時、西連隊長から総攻撃を中止しろとの栗林兵団長から命令が下ったと知らされた。この説得で航空隊の兵二百名程合流し戦車隊の指揮に入った。
 西連隊長(中佐)はロスアンゼルスのオリンピックの大会で馬術障害の金メダルを取った西竹一中佐。私はその後、西中佐が自決する寸前まで行動を共にした。
 この戦場で最も非人間的で悲惨であったのは、M四戦車に対する肉薄攻撃であった。明日、戦車が攻撃して来ると予想される地点に三、四名一組として、五、六組毎夜出撃した。
明け方四時頃までに指定地に着き、その付近に散乱している友軍の戦死者七、八名をかき集めて、戦死者の腹を裂き、臓物を
取出し、自分の上衣のボタンをはずして胸のあたりに押し込み、またズボンの破れた部分から押し込んだ。
死体群の中に入ってあたかも自分が戦死者のように偽装した。
死者のギョロッとむき出した目の視線が鋭い矢になって皮膚を貫き、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。
その矢は幾千、幾万本にも感じられた。私は歯をくいしばってこの非人的で残忍な行動の汚辱感と戦いながら冷静さを失うまいと必死だった。段々と意識が混濁して生きているのか死んでいるのかわからなくなった。
 ふと首筋や顔を這い廻るウジ虫で我に返り、臓物を取り出された戦死者の身が明日の我が身か、戦死してもまだ死体となって戦闘を続けなければならぬとは、あぁ! これが戦場かと心の中で呪った。作戦自体末期的兆候だ。
 
posted by サゲ at 23:36| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(9)

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戦場体験証言(9)
  井口 光雄 さん 
陸軍/1943(昭和18)年12月 学徒召集/ルソン島/歩兵 

ルソン島 行き倒れた水牛の生き血に命を救われる

 
 「米軍ルソン島上陸」の報に、軍の主力は北部ルソンへ移動を開始した。マニラ近郊で陣地構築に従事していた教育隊も、四百キロの道程を十日間で北上するのです。食糧も車輌もなく、夕方出発して夜通し歩き、明け方到着したところで現地民の家へ押入り、田畑を荒らして食べ、そのまま熟睡するのです。
 要領のよい元気者はうまくやるのですが、私などは食べ物が見つからず絶えず飢えており、五日目には宿営地に着いた朝、ついに道端に倒れ、自決しようとしたが、手榴弾は発火させる力も残っていませんでした。
六十キロもある機関銃を背負わされてきた水牛も、酷使に耐えられず、私の近くでバタリと倒れました。即死です。
すると、誰の知恵か、逃げ遅れた現地民を連れて来て、「水牛の頭をやるから解体しろ」と命じたのです。
彼らはまず馬穴をあてがって頚を切り、血液を抜き取りました。お碗に血を掬ってかたわらに倒れていた私に飲めと言うのです。むっとする血潮など飲めるはずもないのに、なぜか無意識に飲み干すとまた注いでくれます。
飯盒を取ってこれにも一杯つめてくれました。
夕方、目が覚めると何となく体が軽い。飯盒を開けてチーズ状になった血液を食べました。
もちろん、あの水牛の肉も仲間が分けてくれ、元気を取戻して目的地へ到着しました。
しかし、この行軍で十数人の仲間が死にました。
私は神の心を持つ現地人に救われたのです。
 二月末、教育隊を卒業して、米軍上陸以来、激戦を続ける旭兵団に配属され、直ちに機関銃小隊長として米軍と銃砲撃戦に突入しました。
このルートからの突進が難しいとみた米軍は、他のルートに迂回、我々もまたその前面に立ちはだかり、戦車を連ねて来る米軍に二度三度と挑みました。
多大なる犠牲をはらいながら、ついに重要拠点バギオ撤退の命が下りました。
我が小隊も半数以上の損害を出して撤退の途中、行き会った曹長が、「赤ん坊を背負った女が山から降りて来て、チラッと我々を見て行った。
これは危ないと、山の反対側へ廻ったら案の定、元の場所がバンバン砲撃された」と話して行きました。
隊長が女を殺させなかったのが不満のようでした。
でも、日本軍は食糧、薬品から兵器さえ補給せず、兵隊だけ七十万人近く送り込みました。
そのフィリピンは食料の四割を輸入に頼っていたのです。
戦争は国土を荒廃させ、人心を荒ませます。
負け戦は悲惨なもの。勝っても碌な事はない。
米国は朝鮮、ベトナム、イラクから今日まで若者を死なせ続けています。
戦争は地獄です。
 


 

Due to the American troops’ landing on the Luzon Island, the Japanese army was forced to move to the north of the island.  We had to march 400km in 10days without any food or vehicles.  One day, after walking all night long, we broke into a house of native people, ate their food, trashed their fields, and slept there.
But with very little food, we were constantly starving.  On the fifth day, I collapsed on the street and decided to commit suicide with a hand grenade; however, even the grenade had no power to explode…
Then, a water buffalo that had been carrying 60kg of weapons died in front of me.  So, we ordered a native person to dismantle the buffalo. He cut its throat, withdrew blood, and gave the blood to me.
When I woke up on the next day, I found myself feeling much better.  I ate buffalo meat and the jelled blood again which kept me going.  More than 10 people had died during this march but I survived, thanks to the sacred native person. 

In the end of February, I was assigned as a platoon leader of the Asahi Corps which was severely fighting with Americans.  The fight against fully armed American troops took a heavy toll of lives…there were less than half soldiers left in my platoon.  And finally, we were ordered to withdraw
Baguio, a strategic foothold. 

During the evacuation, we met one sergeant.  He told us about a native woman with a baby who had reported Americans about a location of the Japanese troops.  The sergeant was upset because his commander didn’t kill her….
 

Back then, the Philippines had relied 40% of food on import, however, Japanese army sent about 700,000 troops to the Philippines without food, medicines, or even weapons.  
 

War causes devastation of countries and desolation of the spirits.
There is no win or lose in war.  After WWII, the United States has been involved in wars of Korea, Vietnam, and Iraq and many precious lives have passed away…  Remember, WAR IS HELL.
posted by サゲ at 23:28| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(8)

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戦場体験証言(8)
  島田 殖壬 さん 
陸軍/1944(昭和19)年3月20日 志願/歩兵/レイテ島 

レイテ島 泥田、こんな惨めな死に方はしたくないと言いながら皆死んでいった

 
 私は昭和十九年三月二十日、現役志願兵として、当時十八歳で東部六部隊に入隊し、十日余りで満州国孫呉の歩兵一連隊で教育を受け、一期が終わる七月に第一師団動員令のもと、南方行きとなりました。
当時、行き先はまったくわからず、中国・上海から船に乗り、南下し、フィリピン・ラボックで原口大隊は上陸。
マニラを目指し、私の小隊は船でマニラ港に十月下旬に着き、上陸しました。
その頃、米軍がレイテ島に上陸して来て、守備隊の十六師団は全滅したそうです。 
 十月三十一日、第一師団は決戦師団としてレイテ島に急ぎました。当時、私たち兵隊は、実戦経験がない現役の兵ばかりでしたから、船上でレイテ島がどんな島かもわからず、一週間もすればまたマニラに帰って来られると気楽に話していました。
 十一月一日、オルモック港に上陸。三日進軍開始。昼ころ、P38戦闘機の空襲、機銃掃射で私は右肩を負傷。戦友からは不運な兵と言われながら行軍し、部隊がピナ山に登るとき、麓のロノイという部落に一人残され、小隊全員の背嚢を管理しているよう命令され、心細い限りです。
リモン峠方面の戦闘が激しくなり、歩一は下山を命ぜられ山から帰って来ましたが、また残され、後に私が前線に行くころは、戦場は死骸ばかりの有様。
死体は蒸し暑さのため、一週間もすると白骨化してしまいます。
後日、師団の土居参謀が「砲弾と肉弾との戦いでは、兵がいくらいても勝てる訳がない」と言うほど、砲弾が激しく落下してきます。
 私と増田(満州以来の戦友)が斥候に出たとき、道路向こうに米兵が上半身裸で作業をしている。距離は二十メートルくらい。二人で目配せして銃で射ち、当たったので大騒ぎとなり、反撃され増田は頭に一発。即死し、私は這って密林に飛び込み、走りました。
銃弾がバシバシと体を掠めていき、やっと小隊に戻り報告。明日はこちらに来ると思っていました。
その日の夕方、ガサガサと音がするので木の影から見ると、米兵の斥候が五〜六名、目の前に来ていて、目が合った瞬間、カービン銃で撃ってきました。
三八銃では一発。後が間に合わず、手榴弾を一発投げ、伏せていると手榴弾五〜六発が飛んできて、隣にいた兵二名が戦死し、敵は退いていきました。
数日後、師団は西海岸へ転進命令が来て、リモン峠を去り、カンキポットを目指し夜、行軍。食糧はなく、皆ふらふらの状態で、途中倒れて亡くなる兵も多数でる有様。
二千五百余人の歩一の兵も、リモン他で二千二百名くらい戦死。
三百余りが西海岸へ。内七十一名がセブ島へ転進。
その後、セブの戦闘で三十四名戦死。生還者は三十七名でした。
レイテ残留者は全員戦死しました。
 
posted by サゲ at 23:27| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(7)

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戦場体験証言(7)
  内田 宇吉 さん 
海軍/1944(昭和19)年2月 志願/水兵(水測)/駆逐艦『潮』/レイテ沖戦

 レイテ沖海戦。 駆逐艦が爆発、死体は手、指、顔が白蝋のように

 
 私は群馬の内田です。昭和十九年二月、十九歳の時、志願兵で海軍に入りました。
九月二十日、横須賀久里浜の対潜学校を卒え、同期の工藤君(十五歳)と駆逐艦「潮」に乗艦すべく瀬戸内海に向かい、二十九日に柱島沖で乗艦しました。
 乗組員は三百二十名。二千三百トンの優秀な艦でした。
十月十四日、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻で南方へ向けて出撃する。
そして艦長より訓示。「我が艦隊はフィリピン・レイテ湾に向い、米艦隊と決戦する。この戦いに敗れば、我が国はこの戦争に勝てない」と言われた。
馬公で燃料補給してレイテ湾に向け猛進する。日本艦隊の主力はボルネオより北上する「武蔵」「大和」以下の栗田艦隊と「山城」「扶桑」以下の西村艦隊。
 私たちの志摩艦隊は、この西村艦隊と合同してレイテ湾へ突き進む。それと、内地より空母四隻・戦艦二隻を主力とする小沢艦隊。文字通り、日本艦隊の全力を挙げた戦いだった。
二十四日真夜中、先行した西村艦隊がスリガオ海峡で米艦隊の砲撃を受け、駆逐艦一隻を残し全滅。
 真っ暗な前方二万メートルで「山城」と「扶桑」が真っ赤な火を吹きあげて燃えている。この戦いで、西村艦隊の戦死者は六千名以上と思われる。
また、この戦いで軽巡「阿武隈」が被弾し、九ノットで避退した。
「潮」は「阿武隈」を護衛して帰る途中、B24二十機に襲われた。「阿武隈」は爆弾数発が命中、大火災で沈没。乗組員七百五十名中三百名余りを救助してマニラへ。
 十月三十一日、陸軍・玉兵団を満載した輸送船四隻を護衛してレイテ・オルモック湾へ。兵員弾薬の揚陸中、敵大型機が襲ってきた。
至近弾で「潮」の魚雷頭部へ弾片が命中、燃え出した。急ぎ、これを投げ捨てて無事。
 十一月五日、マニラ湾空襲。姉妹艦「曙」が被弾。戦死傷者多数。
 十一月八日、陸軍・泉兵団をオルモックへ護送。またも大混戦。私は中部機銃の弾込めの応援。頭上に敵機の居ない時だけ気持ちが少し安らぐ。
この時、三千メートルくらい向こうにいた輸送船にB25が三機襲いかかった。マストに触れんばかりの低空で爆撃。水煙の消えたとき船は見えず。轟沈だ。この船にも陸兵二千名は乗船していたであろう。
 十一月十三日、マニラ湾空襲。湾内に二十隻くらいの軍艦、商船がいた。上空は敵機のみ。八時半頃、右上空より襲われ、右舷二、三メートルに爆弾が海底で爆発。海水が滝のよう。下から猛烈な蒸気で暑い。午後四時頃まで敵機は去らず。
夕刻、空襲も終わり、機関科二十三名の遺体をあげる。
なんと遺体の手、指、顔は小さく細く、白蝋のようだ。高温高圧の蒸気に二、三分吹かれると人体はこのようになってしまうのか。
以後、「潮」は片舷航海だった。この夜、マニラ出発。シンガポールで応急修理し、昭和二十年一月十四日、日本へ帰る。
 戦後の記録によると、一番多く使われる級(クラス)の駆逐艦が日本に百隻あり、終戦時に残っていたのは三隻のみで90隻以上が沈没した。
「潮」の戦死者は四十三名だった。
 最後に一言。戦争はその勝敗の如何を問わず、人類最大の愚行なり。 
posted by サゲ at 23:19| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(6)

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戦場体験証言(6) 
 岩谷寿春 さん 
陸軍/1942(昭和17)年3月11日 現役/ニューギニア/航空兵(整備)
 
ニューギニア 落下傘爆弾が直撃 後輩の骸を抱き半狂乱になる 

 奇襲攻撃
 昭和十八年八月十七日に私は東部ニューギニア、ウエワク東飛行場で隼戦闘機の整備をしていた。明十八日から週番上等兵として、山形県出身の太田と宮城県出身の千田と共にその任務に着くことになった。
 その日、三人で飛行場大隊に昼食受領に行き、海辺の砂の上を歩き、椰子葉ぶきの兵舎に戻った。
この日、空中勤務者は休み、別の小屋で休んでいた。最初に空中勤務者四名の配膳をすませ、病患で別棟で休んでいる下士官に分配を始めようとしたその時、急に風を切ったように「シュー」とする音に、とっさに私は顔を上げて前方を見ると、椰子の木すれすれに低空で、アメリカB二十五の機体が目に入った。
私はとっさに「空襲だ、伏せろ」と叫んだが、二人はまだヘラを持ったままだった。
 「早く伏せろ」と言った瞬間、屋根にフアーと白いものが落ちてきた。それが屋根に当たるか当たらないかで爆発した。落下傘爆弾だった。
部屋の入口の椰子の木の根元に伏せていた私は、立ち上がって五、六歩走って太田の姿を見た。宿舎の道路に千田に覆いかぶさるように倒れていた。
「太田」と叫びながら駆け寄って、彼の左手を持ち起こそうと引っ張ったら、血がどうと胸から噴出し、私の服が真赤に血で染まった。
更に抱き上げると心臓が撃ち抜かれていた。即死の状態で、更に血が噴出した。
太田を床に置き、更に通路に下向きに伏した千田を抱き起こすと、まだ息があった。
静かに目を開けた千田は「上等兵殿、太田は大丈夫ですか」「大丈夫だ、しっかりせい」「そうですか。ああ、よかった」・・私は再び、「千田、千田、千田」と叫んだが、返事はなかった。私は声をあげて泣いた。
近くの宿舎から吉良曹長が駆けつけて、私の手から千田を抱き、床の毛布の上に寝かせた。私はまだ泣き止まなかった。
吉良曹長は落下傘を自分の部屋から持ってきて、毛布を敷き、その上に二人を寝かせた。私は放心していたが、悔しさと悲しさと無念が怒りとなって部屋の柱をたたく手から血が噴出した。
激しく悲しいひとときであった。私の体は三人の血で血だるまの姿で砂の上に座っていた。
 上官の樋口曹長が飛行場から駆けつけて、私を見て、「しっかりせんか。ここは戦場だ」と、ビンタと共に大声で叱られた。
 この日の戦場の姿は、私の人生で一生忘れることのない戦場の姿でございました。
 
posted by サゲ at 23:14| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(5

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戦場体験証言(5)
  佐藤 敏雄 さん 
陸軍/1940(昭和15)年12月1日 現役/香港マレー半島侵攻/歩兵(旗護兵)
 
ガダルカナルへ 270機の空爆に囲まれて強制上陸 ガタルカナル島の前後

 ただ今紹介されましたとおり、太平洋戦争開戦前より所謂野戦に居り、ホンコンの開戦十二月八日、戦勝入場式、次いでスマトラ島パレンバンの落下傘部隊支援、次いでカンテイ作戦又はその後の休養訓練の期間を与えられましたが、現役兵を長く遊ばせておく筈もなく、つまり当時陸軍が苦戦している所は、マレーのマンダレーか、南方の英語の島であると告げられ、其のいずれかの命令が出るまで輸送船上の人として毎日南瓜、南瓜のおかずで遊弋待機したが、なんとなくマンダレーよりまだ激戦地で、生きて帰れないように感ぜられ、夜甲板上で内地より持ってきたお守りを拝み、武運長久を祈り、父母妹たちに達者でなーと語りかけた。
 その後まもなく、進行目的は、ガタルカナル島と明示され、南下をはじめ、急に周辺は殺気立って来た。先ずはニュウブリテン島ラバウルへ到着した。
 ラバウルに着いた船団は確か数隻だったが、其の船を別れ、新造船に乗り換え、またまた、洋上乗り換え、普段だったら二千人は乗せる一万三千トンの広川丸は10分の1の200人、つまり連隊本部、連隊砲、通信隊だけ、積荷も揚上陸用機材と少量の食料弾薬のみ、つまり極力船足を軽く、連隊長と軍旗は当然船橋の高いところ目まぐるしく出る命令、大声の号令指示のなか、広川丸は島影に隠れ敵機を避け夜を明かし、緊張の連続であったが、十三日の金曜日は外人の忌み嫌う日だから、其の日を選んで侵攻するだろうと我々は想像しあっていた。
 一応は出向したが引き返し、島影に、行き詰る雰囲気のなか、十四日各島影から急速に集合南進する我が陸軍は十一隻、護衛駆逐艦は二十五隻合計三十六隻が白波を全速南下する様は、流石大本営直轄作戦は凄い、これなら必ず勝つ、私は裸から軍装を整え加給品のタバコを隊内に分けていた。
 甲板へ出てはいけない! との命令が喧しく放たれているなかーー全く凄まじい落下音、炸裂音、爆弾命中である!! 悲鳴、痛いよう!、 一面の火災、私は小学校の広瀬中佐、木口古兵の『死んでもラッパを放しませんでした』を瞬時に思い、俺は旗護兵!軍旗と共に!軍旗! 船倉から軍旗の有る船橋は、甲板も火の海で大破壊黒煙で目も見えない、ようよう辿り着くと聯隊長は一人で、しかも顔面負傷しているが、連隊旗手はどうしたか? 戦死とわかり、他の海上は敵航空隊の大空襲、魚雷爆弾銃撃!! 十月十四日午前十一時四十分、ラッセル島北北西二十海里敵機延べ二百四十機の猛攻で、わが船は沈没航行不能、広川丸と外一隻のみ翌朝ガ島に到着、軍旗も我々は勿論飛び降りてガ島の人となった。
  戦争は勿論もうやってはいけない。がしかし体力気力忍耐は平和主義の美名にかくれて鍛える場、時間を作らねばならない
posted by サゲ at 23:13| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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