2009年10月11日

金田満郎さん (昭和13年志願:歩兵:北支:重機関銃)

証 言: 金田満郎さん 
取材日:2009年10月11日
主な軍歴
1921(大正10)年2月3日生まれ
兵種:歩兵(重機関銃:92式重機関銃)
最終階級:曹長 
▲1938(昭和13)年12月 志願 第8師団歩兵17連隊第2機関銃中隊
▲1939(昭和14)年6月  第108師団歩兵117連隊補充要員として北支へ 山西省での警備と討伐
▲同年 11月 独立混成16旅団独立歩兵84大隊へ 保和村の警備 
▲1940(昭和15)年 下士官候補生に、卒業後原隊復帰
▲同年 中原会戦  黄河唯一の渡河点の占領を命じられるが猛反攻で多数の死者を出す
▲1941(昭和16)年1942(昭和17)年    分遣隊長として七洞村、普洞村、上梁村などの治安・警備  回帰熱に罹患
  1942(昭和17)年初年兵受領のため一時帰国 
▲1944(昭和19)年  万泉方面に移駐、爆破撤退
▲1945(昭和20)年 春  中支江蘇省の守備に移駐
▲同年 秋 現地で軍籍を離れ一般人として上海より第1回目の引き揚げ船で帰国
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2009年10月10日

少飛会慰霊祭

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10月10日の今日、元兵士の会の関さん(少飛11期)のお誘いで保存会若手ボランティアの有志4名が少飛会慰霊祭に参列させていただきました。
200名近い参加者がありましたが、聞いてみると前年の半数との事。
最年少者でも80歳代を超えています。
健康上の理由から慰霊祭に参列できる方が少なくなって戦後64年という年月を改めて感じました。
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慰霊祭が始まるまで若手ボランティアは様々な元少年飛行兵の方とお話ができました。
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関さんの計らいで慰霊祭終了後の直会にまで参加させていただきました。
posted by サゲ at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

Welcome to Japan Veterans Video Archive Project!

Sorry, we are preparation pages in English and German!

"Help Wanted! - Volunteers of written translation."


Japan Veterans Video Archive Project
Tokyo Office

tel: +81 3 3916 2664
fax: +81 3 3916 2676
email:  senjyou@notnet.jp
blog: http://keepast.seesaa.net/

6-82-2 Takinogawa Kita-ku
Tokyo JAPAN
postal code: 114-0023

2009年10月04日

戦場体験史料館新パンフレット

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現在配布中の戦場体験史料館パンフレットの在庫がなくなったため、一部リニューアルした戦場体験史料館の新パンフレットを作成いたしました。
来週の連休明け以降に仕上がる予定です。
※上画像はペラの状態ですが、完成品は三つ折のパンフレットとなります。

posted by サゲ at 22:14| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

拡大事務局会議

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昨日の土曜日、滝野川事務所に元兵士&若者ボランティアが集まって拡大事務局会議がありました。
日比谷集会(あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い)の報告と総括、今後の活動について老若さまざまな発言や提案が飛び交いました。

なにはともあれ、がんばろう。
posted by サゲ at 15:31| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言

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全18名の戦場体験を掲載させていただきました。
掲載内容は、事前に証言者から寄稿していただいた原稿です。
当日の証言内容と異なる場合がございますことをご了承ください。
また、当日は体調不良などにより
証言(1)室井さん
証言(6)岩谷さん
証言(10)大曲さん
上記の三名はボランティアスタッフによる代読
証言(11)嶺井さんは沖縄からのビデオメッセージ
証言(15)川崎さんは時間の都合上割愛させていただきました。

戦場体験放映保存の会ではこれらの戦場証言をまとめた冊子を一部500円にて販売中。
証言に加え、軍歴とミニ解説、写真、地図を掲載しています。
※売上金は全て戦場体験資料館・戦場体験放映保存の会の活動資金となります。
メール(senjyou@notnet.jp)にてお問い合わせの上、発送先をご連絡ください。

発送方法:ゆうメール(冊子小包)にて発送させていただきます。
      (郵送料の目安:1冊210円、2〜3冊290円、4〜7冊340円)
お支払方法:冊子に同封の郵便為替振込み書に記載の料金を最寄の郵便局窓口にてお振込みください。
posted by サゲ at 10:39| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(18)

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戦場体験証言(18) 
坂本 初枝 さん 
従軍看護婦/1946(昭和21)〜1958(昭和33)年4月/中国 昭和33年復員

看護婦として中国共産党軍に徴用、野戦病院へ

 
 私はハルピン市で終戦を知りました。終戦の年の九月、私が勤務していたハルピン市満鉄病院にソ連軍がやって来て、病院の強制接収が始まりました。
ソ連軍の命令の中に、「患者全員を退院させよ」というのがありました。
問題は動けない重症患者をどうするかということです。病院上層部から安楽死の指示が出されました。
 二人の例をお話します。
一人は私の同期の看護婦が重度の結核で入院していました。妹の手でモルヒネを打ちました。
二人目は関東軍少尉の新妻です。同じく重症の肺結核でした。ある日、少尉が来られ、私共に花嫁衣装を手渡され、自分は部隊と行動を共にする。もう妻の元には来ることが出来ません。よろしくお願いしたい、と挙手の礼をして帰られました。私たちはぎりぎりまで看病しました。でも時間が来てしまいました。
新妻に花嫁衣装を着せ、お化粧して、そしてモルヒネを打ちました。
二人とも、病棟近くの防空壕に寝かせ、土をかけました。
私共には重症患者をソ連軍の渡すことは絶対出来ないことでした。
 昭和二十一年四月、人民解放軍に依り、かなりの日本人医療関係者が強制抑留されました。
当時、中国国内戦が拡大しつつあり、野戦病院の必要性が高まっていたのです。
私は兵站病院に配属され、すぐに八〜十二時間の夜行軍が始まりました。
昼間患者の手当てをし、夕方になり後方病院に送り出す。私たちは前線部隊を追って夜行軍。こんな情況は四年も続きました。
薬品不足、材料不足の中で、私たちは出来る限りの努力工夫で患者の手当て、救命活動をしました。
自分たちの睡眠時間を割いて材料の用立てをしました。
負傷兵には輸血の必要な者もいます。中国人は血を人にやるなどありえないのです。私は自分の血を四回輸血しました。
食欲のない患者に、自分のお金で食べられそうな物を買ってきて食べさせたことも。便秘で苦しむ患者を助けるため、自分の指に油をぬってかき出したことも。浣腸器なし。
 日本人は患者に常に声を掛け、不安を取除くと同時に、病気の変化を早く見つけて処置するなど、常に努力しました。
日本人の中にも病人は出ました。しかし、休養も充分とらず職場に出て病人の治療にあたりました。
私共、日本人は本当に働きました。中国幹部職員患者も、あなたたちは、どうしてそこまで出来るのか?と言っていました。
私共、医療関係者は中国医療関係者に、お手本になれたと思っております。
私の気持ちの中には、日本軍国主義が中国で犯した罪に対して、一日本人として申し訳ない気持ちと今、罪のつぐないの一つをしていると思っていたような気がします。
posted by サゲ at 09:09| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(17)

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戦場体験証言(17) 
岡野 工治 さん 
陸軍/1943(昭和18)年10月20日 学徒招集/航空兵(特別幹部候補生)

 
シベリア抑留 私がパンを分けなかった戦友の死が胸をえぐる

 
 私はシベリア抑留者として四年間を経て祖国日本に帰国した。
ひとくちに言うなら、寒さと飢えと栄養失調で多くの仲間を失った当時の兵隊の平均年齢は二十三〜二十四歳だったが、特に三十歳、四十歳代の兵隊は年老いた七十〜八十歳代に見えた。それほど一週間くらいの激戦と、終結地までの百キロの徒歩行進で見も心も疲れ果てていた。
 さて、私は陸軍の特攻隊員で、同期生の半数、四十八機が沖縄と台湾沖で隼戦闘機もろともに自爆し、戦死していったのでした。
その後、旧満州北部のチチハルの飛行場で敗戦になり、昭和二十年十月二十三日にハバロフスク州テルマ地区の二〇五収容所に抑留されました。
さきほど話した通り、六万五千名余の抑留死亡者の三分の二、四万二千名が抑留の一年三ヶ月で亡くなり、当初、寒さと飢え、栄養失調でした。
 本日、私に与えられたのは抑留のことでの想いとのことですので、今現在でも忘れ得ない、いわば墓場まで持って行く気持ちであったことを申し述べます。
 私の生まれは新潟の山村です。秋十一月から翌年の四月まで暖を取るため、いろりに毎日薪を多く燃やすので、大量の薪を焚くので、十月中、山林に行き、四、五日かかって薪作りをするのです。父から小学校五、六年と中学生時代教えられたことが役立ちました。
シベリアの収容所では我々を管理するロシアの十五世帯の家族がいまして、薪作りの名人と言われるほどで可愛がられました。
宿舎へ帰る時には、「ありがとう」「優秀作業員」と言って、一キログラムの黒パンをくれました。
 宿舎では十時には就寝となるので空腹と疲れで寝込んでしまうので、私は毛布をかぶり、黒パンを音を立てないように食べました。
それから十日後の朝六時起床に、一つ置いた隣の仲間が冷たくなって亡くなっていました。栄養失調でした。
 私は六十四年前のその事が、罪の意識で今でも忘れ得ぬ、誰もが知らないことなのです。
その事があって、反省として私はシベリアへの遺骨収集に四回、墓参団の案内に八回、進んで参加しております。
 今思うことは、「満州侵略さえなかったら」シベリア抑留がなかったのだと。
もっと突っ込んで言うならば、戦争がなかったならと思うことしきりです。
戦争には飢えがつきもの。飢えほど人間性を失うものはない。まったくエゴの固まりとなり、愛という人間の知性も倫理も投げ捨てるのだと私の一生のうちで、この事が大罪であり、脳裏から消え去ることはないであろう。
なぜならば、六十四年前に間接殺人を犯したからです。
 したがって私は、その反省に立って日本国憲法九条、「再び戦争をしない」「人間を殺さない」「武器を作らない」「武器を持ち込ませない」「武器を輸出させない」。これが私のシベリア抑留に思うことです。
「なぜ、空腹の彼に黒パン半分を与えなかったのか?」をと・・・
posted by サゲ at 09:03| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(16)

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戦場体験証言(16) 
加藤 正寿 さん 
陸軍/1944(昭和19)年12月1日 現役入営/歩兵(機関銃) シベリア抑留

 戦友は飯盒を握り冷たくなっていた

 
 昭和十九年十二月、東部六部隊に入隊。同月、北支に向け出発。
到着後、三ヶ月の初年兵教育を受ける。教育終了後、昭和二十年四月に三ヶ月の南陽作戦に参加、戦争の恐ろしさと厳しさを十九歳にて体験した。
六月に新郷に帰還、即、満州白城子に転進。我々、二百四大隊は郊外に陣地を構築。ソ連軍の戦車が来襲してくるとのことで、我が中隊は爆薬を持って戦車の下に飛び込むよう命令が下った。
待機していたが、早朝に旅団命令にて急遽、泰来(タイライ)に転進。八月十七日、天皇陛下が海外に終戦の布告をしたと聞かされ、皆、唖然とするばかりであった。
その後、新京にて武装解除され、ソ連軍の指揮下に入る。
 千五百名の部隊が編成され、シベリア鉄道にて田舎町ハラグン駅下車、約十キロ行軍。
九月というのに、そこは銀色に輝く山腹。柵だけに囲まれた原野、雑木林の空間に収容され、雪の降る中、抱き合って一夜を過ごす。
翌日より昼間は伐採、夜は焚火をし、一ヶ月がかりで収容所として半地下の宿舎を建てる。
八ヶ月間、早朝より深夜まで毎日、伐採作業に黙々と従事。
この間、食糧不足と重労働のため、栄養失調により約四百名の戦友が死亡した。
 山脈の密林は無限に続いて、それは切れども倒せども永遠と続いており、一山伐採が終わると次の山が控えている有様で、ある者は枝に打たれ骨折し、又ある者は木の下敷きになり頭を割られ死亡。
 捕虜に与えられる食事は朝三百グラムの黒パン、昼と夜は燕麦のお粥飯盒四分の一と大豆のゆでた豆三、四十粒。その日のノルマが終わらなければ収容所に戻れず、体の弱い者は帰りが深夜になり、翌日早朝より作業となる。
当時は自分一人生きぬくことが精一杯。あの雪原の中の過酷な強制労働、そして極端な食糧不足で尊い生命を失った戦友はどうして浮かばれましょうや。
 松葉を布団代わりに敷き毛布一枚外套をかけ、虱と寒さと餓えに震えながら夜も寝られず、夜が明ければ「ダワイ(早く)、ノルマ」と夜が更けるまで働かされ、戦友は毎日のように三人、五人と死んでいった。
 早く帰国したいと枕を並べていた戦友が、次の朝、飯盒を握りしめ冷たくなっていた。
死んだ戦友は丸裸にされ零下三十五度の原野に穴も掘らず、雪を被せたままでの残酷なものであった。
戦友に心安かれと祈るばかりであります。
悲運にも彼の地に仆れし幾多の戦友を偲ぶとき、唯々、断腸の思いです。
 日本のその筋の方々が本当に真剣に折衝していれば、墓参、遺骨収集も、もっと早く実現可能な運びとなったと思います。
 このような飢餓地獄の生活を体験した者として、幾多の方々を代表して政府の扱いに納得できず、戦後処理が終止符を打っているとは思えません。以上が私の体験談です。
 
posted by サゲ at 08:58| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(15)

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戦場体験証言(15) 
河崎 春美 さん 
海軍/1943(昭和18)年12月  志願/海軍甲種飛行予科練生/人減魚雷回天

 幻の回天特攻 敗戦後、幻の特攻準備の事故で111名が死亡

 
再開の特攻
 元第二十三突撃隊
回天搭乗員 河崎春美
 本来ならば潜水艦で出撃する回天作戦だが、私は本土決戦間近となって、六月土佐湾梢々南西の須崎に本部を置く第二十三突撃隊回天搭乗員として進出、敵の来攻を待機していた。
八月十五日の終戦放送は雑音と共に流れ、その直後に行われた午後の課業整列で司令から初めて知らされたが、上層部も対策指導に困窮し、決して逸まった事をするなとしか指示が無く、茫然お先真っ暗となっていた。
 その翌日夕刻になって突如「米機動部隊が土佐湾沖に現れ、来襲の模様」の入電に特攻の再開だとばかりに勇み立っていた。
その電報を、決戦体制に入れと解釈したのが、我が二十三突撃隊の手結基地配備の震洋突撃隊で自動車エンジン搭載の特攻艇で今では想像も出来ないだろうが、当時は不調なときにはプラグを外し火花の状況を調べていたが、プラグの火が漏れていたガソリンに燃え付き、爆薬を搭載していた艇に火がついた。
そこで全員壕を飛び出し、暫く警戒していたが、爆発が起こらなかったので壕内に戻り出撃準備に掛かったところ、加熱されていた火薬の爆発が発生、搭乗員・整備員等百十一名の生命が一瞬のうちに失われてしまった。
この状況が附近に駐在していた陸軍部隊から大本営に報告され、「沿岸特攻部隊が敵機動部隊を迎撃、戦果拡大中」となった。
敵機動部隊は漁船群の誤りであり、全くの幻の特攻であったが、終戦の混乱が招いた惨劇であり、敵襲ではないので、戦死ではなく殉職となった。
東北・北海道出身者も多く、その遺族達は遺骨引取りの汽車の切符が入手困難で、年末頃に漸く整理できた様な始末だった。
一時は、私達回天搭乗員は電報通りであれば戦死扱いとなっていた。
出撃順序が震洋より早い第一次出撃となっていたためで、幻の出撃であったため、今日まで生かされることとなった。
 戦後発生の最大の悲惨事であった。
 
posted by サゲ at 08:53| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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