2007年02月21日

松浦俊郎さんの戦場体験

松浦俊郎さん 

証 言: 松浦俊郎さん 1922(大正11)年生まれ、杉並区 
取材日時: 2007年2月21日(水) 

◆証言を見る方はこちら◆


【取材レポート】

松浦俊郎さん手記01    松浦俊郎さんの手記02


見て下さい、この飴色の手記!!   びっしり書かれた豆粒大の文字!!! 

これが三冊もあって、三冊を包むケース(米軍の米袋製)もついてますっ!
これは松浦さんがフィリピンの収容所で書かれたもので、紙は配給のタバコと交換で集めた陸軍の便箋、米粒をのりにしてページを付けています。右の方が糸で綴じているみたいに見えるけど、これって糸の絵を描いてあるだけ(笑)
凄いですよ〜、実物を見ると本当に凄いから。

これを書いた松浦さんは

 ▲1943(昭和18)年12月1日 学徒召集
  兵種:歩兵   最終階級:少尉

 ▲1944(昭和19)年5月 甲種幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校入学(第11期生)

甲種幹部候補生は当時中卒以上の人が試験に通れば教育後すぐに少尉デビュー出来るという制度。けれども松浦さん達11期生は、もう余裕がなく、卒業しないまま現地へ・・・。 おまけに行った先のフィリピンは既に米軍の上陸が始まっていて、すぐにルソン島北部へ移動命令。戦場になるぎりぎり前を駆け抜ける厳しい行軍で(しかも夜)、教育隊なのに、この移動ですでにマラリアや自殺による死者が沢山出ているのです。


 ▲1945(昭和20)年2月 103師団独立歩兵第180大隊に赴任

さあ晴れて見習い士官任官と思いきや、え〜っ、1人で行くの?
だって180大隊も米軍の攻撃に備えジャングルの中を移動してんだよ。どうやってそんなものと合流するのよ(と私だったら思います)
おまけに身を守るのは軍刀だけ(役にたつのか?)、銃は教育隊に返してるんだよ。米6合って後はどうするのよ。心細いって言うかあり得ない!(あくまで私の意見です)
松浦さんも「後で死ぬのは仕方ないけど、ここで誰にも分からないまま1人で死ぬのはイヤだ」と思われたとか。結局2ヶ月かけて到着。


 ▲同年 6月 バガオに転進 (言葉遣いに突っ込まないでね)

ここで松浦さんは米軍への斬り込み隊の命令を受けた。当時米軍はすでに斬り込み隊に備え、陣地の周囲にマイクロフォン網を張り巡らしており、最初の頃の様な成果はあがらず、むざむざ死地に飛び込むようなものだったが、命令なら仕方がない。この時は斥候将校が案内する宿営地の場所を間違えたため、松浦さんは命拾いをされた。
7月には大腸炎を煩う。
動画はその時のお話しです

 ▲同年9月半ば 敗戦を知る マニラ南方のカンルーハン収容所に
 ▲同年12月24日 復員


最後に、前橋陸軍予備士官学校・11期生は、ルソン島到着398名、生還74名と大変悲惨な経過を辿っている。


余談)
松浦俊郎さん妻しおり

 松浦さんの奥様はプロフェッショナルと言って良いほどのおもてなし上手な方で驚きました。おぜんざいとぬか漬け(しかも銘々お盆に入っている ここは料亭か!)、とてもおいしゅうございました。写真は頂いたクロスステッチの手作りのしおり。何時も沢山用意していて、いらした方のイニシャルに合わせてお渡ししておられるとか、取材班一同頂いてしまいました。
今回同行の某先生、決していつもこんな豪奢な思いをしている訳ではありませんから・・・念のため。(報告:田所)



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