2009年10月27日

山高定三さん(10月の定例収録会)

毎月第3日曜日午後1時半〜、滝野川史料館では公開の収録会を開催しています。
今月証言してくださったのは、山高定三さん(84歳)。
日比谷集会の直後という事もあり遙々大阪からや初参加の方にも多くご参加頂き、小さな史料館はすし詰め、陣取りに乗り遅れた私は階段の裏でお話しを聞くはめになりました。
09年10月収録会
最後に証言者を囲んで恒例の記念撮影(少し人数減ってます)、こんなならもっとお洒落をしてくるんだったと残念がっておられました。

山高さんは満州で敗戦、その後3年間のシベリア抑留をご経験されています。
「年が明けて1月末に最初の犠牲者が出た。最初は死者が出るのは数日に1度だったが、2月に入ると毎日死ぬようになった。」


◆ 山高定三さん
1925(大正14)年生まれ
兵種:技術兵(戦車整備)
最終階級:一等兵

▲1945(昭和20)年 2月8日 現役(19歳)
  東部72部隊入営(三軒茶屋) 
▲入営後4日目 満州116部隊(戦車整備隊)に転属 石頭に展開
◎古い兵隊も木綿の粗末な軍服なのに、羅紗のあったかそうな軍服が渡され、なぜかなと思っていたら、古い兵隊から「お前らは満州に行くんだよ」と言われ驚く

▲4月 初年兵のみ独立戦車第1旅団整備隊へ転属
     本隊は本土防衛のため帰国
◎南方に行くのかなと噂が流れ先輩達も心配している中帰国が決定、本土決戦とは聞いても部隊の中の雰囲気がぱっと明るくなった。しかし初年兵だけ教育中という事で残される事になる。

▲6月 奉天・四平衡(しへいがい)へ移動
▲8月10日 奉天・東陵に移動後終戦
◎8月8日、入営半年で一等兵になる。翌日ソ連参戦を知る
◎15日部隊が集められ終戦を告げられる(玉音放送は聞いていない)。
ソ連兵を初めて見たのはその後数日してから虎石台(こせきだい)駅で。ソ連兵は腕時計など貴重品を奪い、腕に何個も時計を付けている兵隊も。
◎千人ずつ貨車に乗せられ送り出された。奉天で千人×60部隊ほど。
シベリア抑留などとは考えつきようもなかったが、自分は何となく日本には返さないのではないかという気持ちがあった。それで少し下痢気味なのを重く偽って現地に残ることを希望し本隊とは行かなかった。

▲10月 シベリアへ
◎奉天からの最後のシベリア行きの列車で北に向かう。その頃はシベリアに行くのだという事はもう知られるようになっていた。
▽11月 チタ州ハラグンへ収容
◎着いた駅で伐採に当たっている兵隊を見たが、「うちの部隊はもう100人死んだ」と聞く、夏服で作業をしていてびっくりする。真夏に連れて行かれた兵隊は夏の装備のまま、自分たちはすでに防寒具になっていたので比較的良かった。
病人の部隊だと言うことでノルマも幾らかマシだった。
◎ソ連は正規の食糧を与えていたような気もするが、監視兵の横流しが横行、また日本兵の上官が多めに先取りする事なども重なり決定的に不足した。
黒パン、粟、こうりゃん、燕麦、粟は精米していない殻付きのままで下痢をする。どんどんやせ細った。

◎年が明けて1月末に最初の犠牲者が出た。最初は死者が出るのは数日に1度だったが、2月に入ると毎日死ぬようになった。命が尽きるのは何というか・・・気が付かない、朝起きると隣の戦友が冷たくなっている
◎死体はそのまま埋めた地が多いと聞くが山高さんの収容所では全部火葬した。死体を3人でずるずると引きずっていき薪を井げたに組んで上に乗せて燃やす、全部燃えるのには6時間以上かかった。
今日一緒に死体を引きずっていた戦友を翌日燃やす事になる。心細く可哀想で「母ちゃん」と声を出して泣きながら引きずった。火葬を担当するのは仕事に出られない病気の者が多かったので、明日は自分の身かも知れず、どんなノルマよりも精神的にはこれが一番辛かった。

▲1946(昭和21)年 5月 東ヨーロッパ ウファの先へ移動
◎半数が移動となる。ダモイと言われたが、列車は北に、西にどんどん向かう
◎ノルマが厳しい、2×4×1,2(高さ)メートルの薪を作ることがノルマでそれが出来なければ帰れない。
それでも死ぬ人は死んで仕舞ったような感じで、最初の様に毎日誰かが死ぬような事はなくなった。
◎夏は死ぬと言うことを考えなくていい、野草も食べられる。

▲1948(昭和23)年12月1日 舞鶴に復員
◎秋に半数がダモイとなる、偶々熱が出ていたのが幸いで名前を呼ばれて明日ダモイ列車に乗れとなった。名前を呼ばれなかった同年兵がベッドでおいおい泣いていた(のちに無事帰国)
◎山高さんの収容所ではなぜか民主化運動がまるで行われず最後まで階級章を付けたままで階級をつけて呼び合っていた。そのためナホトカでは「お前らまだそんな事をやっているのか」と他の部隊の日本兵に気合いを入れられる事があった。
◎人生で一番嬉しかったのが何時かと聞かれたら、タラップを登ってシベリアの土から足が離れた瞬間、船内で最初の食事がカレーライスだった

◎当時仮病を使わず本来の部隊と一緒に抑留されていたら帰国は1年早かった。
しかし、その部隊は炭坑での労働にあたった為“シベリア塵肺”を患う者が多く今は誰も生存していない。どちらが良かったかは今も分からない。
◎戦死したならまだしも、戦争が終わり平和になったのちに何万人も死んだと言うことが何とも残念で納得出来ない。

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