2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(18)

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戦場体験証言(18) 
坂本 初枝 さん 
従軍看護婦/1946(昭和21)〜1958(昭和33)年4月/中国 昭和33年復員

看護婦として中国共産党軍に徴用、野戦病院へ

 
 私はハルピン市で終戦を知りました。終戦の年の九月、私が勤務していたハルピン市満鉄病院にソ連軍がやって来て、病院の強制接収が始まりました。
ソ連軍の命令の中に、「患者全員を退院させよ」というのがありました。
問題は動けない重症患者をどうするかということです。病院上層部から安楽死の指示が出されました。
 二人の例をお話します。
一人は私の同期の看護婦が重度の結核で入院していました。妹の手でモルヒネを打ちました。
二人目は関東軍少尉の新妻です。同じく重症の肺結核でした。ある日、少尉が来られ、私共に花嫁衣装を手渡され、自分は部隊と行動を共にする。もう妻の元には来ることが出来ません。よろしくお願いしたい、と挙手の礼をして帰られました。私たちはぎりぎりまで看病しました。でも時間が来てしまいました。
新妻に花嫁衣装を着せ、お化粧して、そしてモルヒネを打ちました。
二人とも、病棟近くの防空壕に寝かせ、土をかけました。
私共には重症患者をソ連軍の渡すことは絶対出来ないことでした。
 昭和二十一年四月、人民解放軍に依り、かなりの日本人医療関係者が強制抑留されました。
当時、中国国内戦が拡大しつつあり、野戦病院の必要性が高まっていたのです。
私は兵站病院に配属され、すぐに八〜十二時間の夜行軍が始まりました。
昼間患者の手当てをし、夕方になり後方病院に送り出す。私たちは前線部隊を追って夜行軍。こんな情況は四年も続きました。
薬品不足、材料不足の中で、私たちは出来る限りの努力工夫で患者の手当て、救命活動をしました。
自分たちの睡眠時間を割いて材料の用立てをしました。
負傷兵には輸血の必要な者もいます。中国人は血を人にやるなどありえないのです。私は自分の血を四回輸血しました。
食欲のない患者に、自分のお金で食べられそうな物を買ってきて食べさせたことも。便秘で苦しむ患者を助けるため、自分の指に油をぬってかき出したことも。浣腸器なし。
 日本人は患者に常に声を掛け、不安を取除くと同時に、病気の変化を早く見つけて処置するなど、常に努力しました。
日本人の中にも病人は出ました。しかし、休養も充分とらず職場に出て病人の治療にあたりました。
私共、日本人は本当に働きました。中国幹部職員患者も、あなたたちは、どうしてそこまで出来るのか?と言っていました。
私共、医療関係者は中国医療関係者に、お手本になれたと思っております。
私の気持ちの中には、日本軍国主義が中国で犯した罪に対して、一日本人として申し訳ない気持ちと今、罪のつぐないの一つをしていると思っていたような気がします。
posted by サゲ at 09:09| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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