2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(17)

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戦場体験証言(17) 
岡野 工治 さん 
陸軍/1943(昭和18)年10月20日 学徒招集/航空兵(特別幹部候補生)

 
シベリア抑留 私がパンを分けなかった戦友の死が胸をえぐる

 
 私はシベリア抑留者として四年間を経て祖国日本に帰国した。
ひとくちに言うなら、寒さと飢えと栄養失調で多くの仲間を失った当時の兵隊の平均年齢は二十三〜二十四歳だったが、特に三十歳、四十歳代の兵隊は年老いた七十〜八十歳代に見えた。それほど一週間くらいの激戦と、終結地までの百キロの徒歩行進で見も心も疲れ果てていた。
 さて、私は陸軍の特攻隊員で、同期生の半数、四十八機が沖縄と台湾沖で隼戦闘機もろともに自爆し、戦死していったのでした。
その後、旧満州北部のチチハルの飛行場で敗戦になり、昭和二十年十月二十三日にハバロフスク州テルマ地区の二〇五収容所に抑留されました。
さきほど話した通り、六万五千名余の抑留死亡者の三分の二、四万二千名が抑留の一年三ヶ月で亡くなり、当初、寒さと飢え、栄養失調でした。
 本日、私に与えられたのは抑留のことでの想いとのことですので、今現在でも忘れ得ない、いわば墓場まで持って行く気持ちであったことを申し述べます。
 私の生まれは新潟の山村です。秋十一月から翌年の四月まで暖を取るため、いろりに毎日薪を多く燃やすので、大量の薪を焚くので、十月中、山林に行き、四、五日かかって薪作りをするのです。父から小学校五、六年と中学生時代教えられたことが役立ちました。
シベリアの収容所では我々を管理するロシアの十五世帯の家族がいまして、薪作りの名人と言われるほどで可愛がられました。
宿舎へ帰る時には、「ありがとう」「優秀作業員」と言って、一キログラムの黒パンをくれました。
 宿舎では十時には就寝となるので空腹と疲れで寝込んでしまうので、私は毛布をかぶり、黒パンを音を立てないように食べました。
それから十日後の朝六時起床に、一つ置いた隣の仲間が冷たくなって亡くなっていました。栄養失調でした。
 私は六十四年前のその事が、罪の意識で今でも忘れ得ぬ、誰もが知らないことなのです。
その事があって、反省として私はシベリアへの遺骨収集に四回、墓参団の案内に八回、進んで参加しております。
 今思うことは、「満州侵略さえなかったら」シベリア抑留がなかったのだと。
もっと突っ込んで言うならば、戦争がなかったならと思うことしきりです。
戦争には飢えがつきもの。飢えほど人間性を失うものはない。まったくエゴの固まりとなり、愛という人間の知性も倫理も投げ捨てるのだと私の一生のうちで、この事が大罪であり、脳裏から消え去ることはないであろう。
なぜならば、六十四年前に間接殺人を犯したからです。
 したがって私は、その反省に立って日本国憲法九条、「再び戦争をしない」「人間を殺さない」「武器を作らない」「武器を持ち込ませない」「武器を輸出させない」。これが私のシベリア抑留に思うことです。
「なぜ、空腹の彼に黒パン半分を与えなかったのか?」をと・・・
posted by サゲ at 09:03| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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