2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(16)

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戦場体験証言(16) 
加藤 正寿 さん 
陸軍/1944(昭和19)年12月1日 現役入営/歩兵(機関銃) シベリア抑留

 戦友は飯盒を握り冷たくなっていた

 
 昭和十九年十二月、東部六部隊に入隊。同月、北支に向け出発。
到着後、三ヶ月の初年兵教育を受ける。教育終了後、昭和二十年四月に三ヶ月の南陽作戦に参加、戦争の恐ろしさと厳しさを十九歳にて体験した。
六月に新郷に帰還、即、満州白城子に転進。我々、二百四大隊は郊外に陣地を構築。ソ連軍の戦車が来襲してくるとのことで、我が中隊は爆薬を持って戦車の下に飛び込むよう命令が下った。
待機していたが、早朝に旅団命令にて急遽、泰来(タイライ)に転進。八月十七日、天皇陛下が海外に終戦の布告をしたと聞かされ、皆、唖然とするばかりであった。
その後、新京にて武装解除され、ソ連軍の指揮下に入る。
 千五百名の部隊が編成され、シベリア鉄道にて田舎町ハラグン駅下車、約十キロ行軍。
九月というのに、そこは銀色に輝く山腹。柵だけに囲まれた原野、雑木林の空間に収容され、雪の降る中、抱き合って一夜を過ごす。
翌日より昼間は伐採、夜は焚火をし、一ヶ月がかりで収容所として半地下の宿舎を建てる。
八ヶ月間、早朝より深夜まで毎日、伐採作業に黙々と従事。
この間、食糧不足と重労働のため、栄養失調により約四百名の戦友が死亡した。
 山脈の密林は無限に続いて、それは切れども倒せども永遠と続いており、一山伐採が終わると次の山が控えている有様で、ある者は枝に打たれ骨折し、又ある者は木の下敷きになり頭を割られ死亡。
 捕虜に与えられる食事は朝三百グラムの黒パン、昼と夜は燕麦のお粥飯盒四分の一と大豆のゆでた豆三、四十粒。その日のノルマが終わらなければ収容所に戻れず、体の弱い者は帰りが深夜になり、翌日早朝より作業となる。
当時は自分一人生きぬくことが精一杯。あの雪原の中の過酷な強制労働、そして極端な食糧不足で尊い生命を失った戦友はどうして浮かばれましょうや。
 松葉を布団代わりに敷き毛布一枚外套をかけ、虱と寒さと餓えに震えながら夜も寝られず、夜が明ければ「ダワイ(早く)、ノルマ」と夜が更けるまで働かされ、戦友は毎日のように三人、五人と死んでいった。
 早く帰国したいと枕を並べていた戦友が、次の朝、飯盒を握りしめ冷たくなっていた。
死んだ戦友は丸裸にされ零下三十五度の原野に穴も掘らず、雪を被せたままでの残酷なものであった。
戦友に心安かれと祈るばかりであります。
悲運にも彼の地に仆れし幾多の戦友を偲ぶとき、唯々、断腸の思いです。
 日本のその筋の方々が本当に真剣に折衝していれば、墓参、遺骨収集も、もっと早く実現可能な運びとなったと思います。
 このような飢餓地獄の生活を体験した者として、幾多の方々を代表して政府の扱いに納得できず、戦後処理が終止符を打っているとは思えません。以上が私の体験談です。
 
posted by サゲ at 08:58| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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