2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(15)

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戦場体験証言(15) 
河崎 春美 さん 
海軍/1943(昭和18)年12月  志願/海軍甲種飛行予科練生/人減魚雷回天

 幻の回天特攻 敗戦後、幻の特攻準備の事故で111名が死亡

 
再開の特攻
 元第二十三突撃隊
回天搭乗員 河崎春美
 本来ならば潜水艦で出撃する回天作戦だが、私は本土決戦間近となって、六月土佐湾梢々南西の須崎に本部を置く第二十三突撃隊回天搭乗員として進出、敵の来攻を待機していた。
八月十五日の終戦放送は雑音と共に流れ、その直後に行われた午後の課業整列で司令から初めて知らされたが、上層部も対策指導に困窮し、決して逸まった事をするなとしか指示が無く、茫然お先真っ暗となっていた。
 その翌日夕刻になって突如「米機動部隊が土佐湾沖に現れ、来襲の模様」の入電に特攻の再開だとばかりに勇み立っていた。
その電報を、決戦体制に入れと解釈したのが、我が二十三突撃隊の手結基地配備の震洋突撃隊で自動車エンジン搭載の特攻艇で今では想像も出来ないだろうが、当時は不調なときにはプラグを外し火花の状況を調べていたが、プラグの火が漏れていたガソリンに燃え付き、爆薬を搭載していた艇に火がついた。
そこで全員壕を飛び出し、暫く警戒していたが、爆発が起こらなかったので壕内に戻り出撃準備に掛かったところ、加熱されていた火薬の爆発が発生、搭乗員・整備員等百十一名の生命が一瞬のうちに失われてしまった。
この状況が附近に駐在していた陸軍部隊から大本営に報告され、「沿岸特攻部隊が敵機動部隊を迎撃、戦果拡大中」となった。
敵機動部隊は漁船群の誤りであり、全くの幻の特攻であったが、終戦の混乱が招いた惨劇であり、敵襲ではないので、戦死ではなく殉職となった。
東北・北海道出身者も多く、その遺族達は遺骨引取りの汽車の切符が入手困難で、年末頃に漸く整理できた様な始末だった。
一時は、私達回天搭乗員は電報通りであれば戦死扱いとなっていた。
出撃順序が震洋より早い第一次出撃となっていたためで、幻の出撃であったため、今日まで生かされることとなった。
 戦後発生の最大の悲惨事であった。
 
posted by サゲ at 08:53| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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