2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(13)

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戦場体験証言(13)
 松倉 一悦 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月 現地招集/輜重兵/北満州・孫呉/シベリア抑留

 ソ連参戦 急造爆雷を抱き特攻待機、戦車は一つ向こうの道を行った

 
 昭和二十年三月、北満・孫呉の輜重部隊に現役入隊しました。入隊後はソ連との開戦に備えて毎日塹壕堀りと敵戦車を破壊し、擱座するための飛込訓練でした。車力を戦車と見立てて必死の訓練でした。
 八月十四日、ソ連軍が黒河方面より侵入の報で、初年兵で斬込隊を編成し、黒河方面へ出撃しましたが、全員部隊に帰隊せず生死不明でした。部隊に残った初年兵は私たち二、三名のみで、飛込特攻要員として志願待機していました。
敵戦車近接の報により、進入しそうな各道路に配備されていました。
 急造爆雷は約四十センチ角の木製の箱で、信管と第二ボタンを紐で結び、腕を伸ばせば瞬時に爆発し、粉微塵となります。飛び込みのタイミングと、キャタピラの下敷きになると同時に腕を伸ばすことが、敵戦車を擱座させ破壊できるのです。
 爆雷を胸に抱き、待機して、ふと空を見上げると空は真青で、生死を超越した澄み切った気持ちで待機していました。ただ、今まで親孝行をしなかったことを心の底より深くお詫びしました。
 近隣の道路で激しい機銃音、爆発音と黒煙が見えましたが、敵戦車はいくら待っても来ず、他の道路に進入したので、部隊に帰るよう連絡があり、直ちに帰隊しました。十五日の夜、重大発表があるから待機の指示があり、終戦となったので自決、逃亡各自の判断に任すということでした。部隊宿営地で疲労困憊の果て寝込み、翌朝目を醒ますと人影もなく、呆然自失でありました。
 ウロウロしていると、召集兵とおぼしき老人兵があちこちから三、四名現れ、みんなどうして良いか判らない状況でした。
協議した結果、ともかく南下しようと決まり、そばの自動車に乗り、興安嶺の山々を乗り越えようとした時、ソ連機と遭遇し、爆撃と機銃掃射を受け、一名が行方不明となりました。
さらに南下すると、小興安嶺の街はずれで道路が爆破され通行困難でありましたので、運転者を除き全員下車し、破壊された場所を避け、車の先頭を縄で結び、土手から落ちないようにゆっくり進行させることとなり、私が先頭になり引っ張りました。
運転者がブレーキとアクセルを踏み違え急発進したため、引っ張っていた縄がたるみ、ひっくり返った私の胸、肩、手の上を通り、私は絶息状態となり、七転八倒し、あまりの苦しみで射殺しようしたところ、何かのはずみで息を吹き返したので、荷台に乗せたと後で言われました。
 更に進行したところ、道路の鉄橋が破壊され通行不能となり、引き返して鉄道の鉄橋を渡って南下することとなり、君を一緒に連れて行くことは無理であるので、この駅に置いていくから最終の迎えの貨物列車が午前二時ころ迎えに来る予定だから、それに乗って北安まで行きなさいと言われ降ろされた。
駅舎の中は無人で、近所の開拓団の家の押入れに隠れ休息していた。
真夜中に汽笛の音がし、急いで貨物列車のところへ行ったが、乗り口が高くて肩が効かない私には乗れないので、満人に頼み乗せてもらった。
あまりのことで直ぐ寝込み、目が覚めると北安に着いており、誰もいなかった。
 北安に着いて二、三日後、ソ連軍が到着し、捕虜となった。収容所は野戦倉庫の敷地で、軍人と開拓団の婦女子でゴッタがえしであった。
 我々軍人は、北安から黒河まで徒歩で逆送され、野宿で寒さと雨と風で多くの兵士が死亡した。
黒河の対岸ブラコエチンスクへ渡り、貨物列車で南下し、エジベストコーガヤ近郊の山林の中の収容所で生活した抑留中は、山林伐採、線路工夫などが主な作業で、ノルマ制は伐採で、身体障害者のためノルマが達成出来ず、食事があまりにも少なく栄養失調となり、昭和二十二年九月、帰国できました。 


posted by サゲ at 08:42| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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