2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(12)

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戦場体験証言(12) 
久保 四郎 さん 
陸軍/1945(昭和20)年5月 志願/歩兵/満蒙開拓青少年義勇軍

 満蒙開拓義勇団 14歳で志願、戦死した中隊長の首を持ち帰る

 
 昭和十六年、大東亜戦争勃発。当時、高等科二年生の十四歳、米英に宣戦布告を聞く。翌年三月卒業、進路選択に母が反対する大陸雄飛に燃えていた私は、新天地に飛行機で迎えに来るからと説得、内原満蒙開拓義勇隊訓練所に入所した。
 渡満まで二ヶ月間、軍事教練と開拓の修業。団体生活に厳しい教育を受ける。五族協和をスロウガンに敦賀より羅津経由で満洲国黒河省嫩江県八洲訓練所に入植し、三年間軍事教練と開拓に精魂を傾け卒業時には全満一の優秀中隊として表彰を受け、現地に第一次八洲開拓団と合同第五次八洲開拓団として入植した。
 訓練中の建物耕作地その他そのまま使用され移行時の困難は皆無で幸先の良い発足でした。
 兵役を控えて同年配なので段階に分け令七志願兵を募り先陣として徴兵より早く帰り開拓に専心するよう方針がきまり、体格の良いもの八十名が志願する。
五月にはそれぞれに令状がきて各部隊出征していった。歩兵で孫呉の一五二〇四部隊に入隊。拓友八名が同じ班に入り、まるで八洲にいた気分で小隊長していたので皆を引っ張り、上司から開拓団を見習えと注目されていた。
 一期の検閲間近に孫呉地区に挺身隊「突撃隊」が編成、派遣された。仲間と別れ一人寂しく旅立った。
 八月九日、突然ソ連軍の参戦に関東軍は右往左往。たった一機の飛行機に翻弄され。司令部は爆撃で破壊され各兵舎も炎に包まれ逃げ惑う兵士には機銃掃射が浴びせられ、タコ壺に逃げ込み難を避ける状態だった。
 そんな事態に突撃隊の出撃命令が出た。大隊長露木大尉の率いる大半の人が、一夜の戦車との遭遇戦に全滅に近い打撃を受け、後退してきた残留組の私たちにも敵の野砲陣を爆破せよとの命令に壮徒に着く。
機関銃一丁だけが重火器、三八式歩兵銃。五キロの爆雷と手榴弾。新兵は木銃の先に銃剣を縛りつけ白兵戦に対処するよう諭され任務につく。相手は三〇連発の自動小銃。前方五〇〇米木立の間を縫うように接近してくる最後の白兵戦になつたら相手も道連れにと臍を噛む。隊長の引き揚げ命令に一目散、戦場を離脱出発時の陣地に戻る。
中隊長は戦死したので首を落として持ち帰る。戦友一名は足に銃弾受け歩行困難におちいり自爆する。
 こうして戦闘は終わり、翌日の八月十八日武装解除があり銃を捨ててソ連の捕虜となり、九月十五日黒竜江を渡りシベリヤに抑留される。ギルタの炭鉱に入り先山・後山の経験もし、二十二年八月舞鶴に帰国。
 こんなみじめな戦争は二度としてはならないと肝に銘じ、戦後の諸氏に訴えるを目的にこの会に入会する。


posted by サゲ at 08:35| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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