2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(11)

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戦場体験証言(11)
 嶺井 巌 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月1日 招集/沖縄駐屯軍 球七〇七二部隊入隊/砲兵 

米戦車隊の火炎放射器の攻撃に合い後方へ転進 頭に迫撃砲を受け即死した母の胸で、乳を求めて泣きわめく乳児。悲惨。

 
 私は現在、東洋一と言われている米軍・嘉手納航空基地からの殺人的爆音被害に、心身を痛めつけられながらの生活を余儀なくされている者の一人でございます。
 私は昭和十七年、沖縄県師範学校に入学。
昭和十九年(満十八歳)の三年生で在学中に、日本帝国軍人の最後の徴兵検査を受けさせられ、甲種合格現役兵のレッテルを張られ、翌年の昭和二十年三月一日、沖縄駐屯軍、球七〇七二部隊に初年兵として入隊。
僅か一ヶ月の初年兵教育を終え、二十二名の初年兵は、四月から分隊に配属され、分隊内務班活動でしごかれ、日夜の陣地構築、壕堀に明け暮れました。
 四月一日、米軍の沖縄本島上陸(中部の北谷、嘉手納海岸から)により戦闘も激しくなり、日本軍は真正面からは戦わず、洞窟陣地に潜んでのモグラ戦術となり、加えて軍司令部はいち早く摩文仁に撤退、多くの住民を巻き込んでの戦闘となり、二十三万余の尊い生命を犠牲にした人類史上の最大悲劇となった。
 五月の中旬となり、私たちの小隊は前線への出勤命令を受け、米軍との接近戦の激しい宜野湾市の高地に到着したものの、米軍の榴弾砲の一斉射撃を受け、住民も自分たちの壕が破壊され、壕を飛び出し逃げ場を失い、バタバタと倒れ、たちまち死骸の山が築かれ、私たち分隊も、その阿修羅の場から一旦別の地点に転進したが、すぐ命令が下り、
「○○小隊は那覇市安里方面の敵戦車隊への肉迫攻撃に突入せよ」
安里へ移動したものの、敵は泊を通り、那覇駅方面へ進行中。直ちに迂回して那覇駅へ。わが小隊も暗闇の中を那覇駅東側へ到着。
敵戦車隊と対峙したが、敵戦車隊の戦車砲撃の一斉射撃に、わが小隊は隊長命令で、具志頭村の中隊本部の駐屯する安里部落に三日後に合流した。
 六月十二日、わが小隊(分隊)は、那覇方面から攻めてきたであろう敵戦車隊に対する監視の任務に着いた。
この日一日中、戦車隊の動きはなかったが、翌十三日は、早朝から米兵は戦車周辺で動き回る活動を始めた。
私たちは、ただ見張りだけの立哨を続行していたが、午前十時頃、十台くらいの戦車から一斉に、機関砲・機関銃の射撃が開始され、わが監視哨はこの敵情を中隊本部に報告。それが終わらぬ中に全戦車が安里部落に向かって進行。
ものすごい爆音と地響きをたてて三十メートルくらい進んだと思うと、ピタリと停止。
次の瞬間、全戦車一斉に火炎放射器から「ボアー、ボアー」と火炎が吹き出し、安里部落の屋敷をメラメラと焼き払った。
その凄まじい攻撃に、わが分隊監視隊員は分隊長の命令一下、部落の反対側へ退がったが、分隊員は散り散りになり、夜になって五、六名が顔を揃えた。
中隊本部からは「この地域の戦闘で生存した者は摩文仁に集結せよ」との指令があったので、集まった六名は摩文仁へ退くことを申し合わせて、暗闇に乗じて出発しようとした途端、迫撃砲の攻撃を喰い、私は左足大腿部に盲管銃創を負い、他の隊員と行動をすることが出来ず、ひとり取り残され、翌朝から足を引きずり、地をはいつくばっての単独行動となり、十日くらいかかって、やっと真壁村にたどり着き、とある製糖小舎の入口に来た。
中は足の踏み場もない、一般住民の負傷した避難民で大混乱。
「いたいよー」「水をくれー」「殺して、苦しい」とわめき声。
私は日本兵でありながら、戦うこともかなわぬ逃亡兵である。肩身の狭い思いをしながら片隅にうずくまった。
夕暮れ時になり、別の部隊に入隊したという初年兵が息せき切って駆け込んできて、
「おいみんな、ここは危ない所だ。歩ける者はほかの場所へ移るんだ!」と言うのも終わらぬ中に、迫撃砲の集中弾を浴び、中の負傷者たちは更に多くの傷を負い、左腕に傷を負って、右手に乳呑児を抱えていた母親が、頭に直撃を受け真赤に血をタラタラ流して倒れてしまった。
とっさの出来事にその乳呑児は、母親が即死したのも知らず、「ギャー、ギャー」と泣き喚きながら、胸から顔をあたりに母親の血のりを受けて乳を求めて動いている悲惨な情景は、地獄そのものだ。
どれ位の時がたったか、あの初年兵に急き立てられ、二人で百メートルくらい離れた民家の庭の避難壕へ入った途端、迫撃砲弾によって製糖小舎は爆破、焼き払われた。中にいた動けなかった避難民はどうした?あの真赤な血のりを浴びて泣き喚いていた乳呑児は?その安否を気遣わずにはいられなかった。
 翌六月二十六日の朝、初年兵二人は捕虜となり、歩兵に誘導され、奇しくも昨晩焼き払われた製糖小舎の側を通りかかった。黒焦げになった焼け跡には、傷つき動けなかった人々の無残な焼け焦げた姿が横たわっていた。
もしや、あの血みどろになっていた乳呑児の姿は?と見回せど、その姿はもうどこにも見当たらない。ただ焼け跡の灰燼の中から、うすゆらぎ立ちのぼる煙は、犠牲になった人々の冥福を祈るために手向けられた香の如く思えて、思わず合掌した。
 この手記を書いている手もふるえ胸がしめつけられる。
日本全国の皆さま、真の日本国の平和を愛する皆さま、二度とこのような悲劇が起こらないよう生存者の私たちは固く心に誓い、犠牲になった多くの国民の御霊のご冥福をお祈りし、今の「世界の誇るべき平和憲法」を守り抜くことをお誓い申し上げまして、私の報告といたします。 


posted by サゲ at 23:41| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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