2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(10)

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戦場体験証言(10)
 大曲 覚 さん 
海軍/1943(昭和18)年10月1日 飛行機整備科・海軍予備学生/硫黄島 

硫黄島 戦死者の臓物を被服に付け死体のふり

 
 太平洋戦争中、戦略の要点であった海洋の島々は「不沈空母」と呼ばれていた。硫黄島はこの名に最もふさわしい島であった。
東西幅の広い所で4キロ、南北8キロ、周囲17・8キロ、これは箱根の芦ノ湖と同じで、真青な海上にポツンと浮かぶ姿はまさに白波を蹴って走る「不沈空母」と呼ばれ、日米双方にとって最も重要な島であった。
 米軍はこの小島に上陸前三日間、三百の艦船から三十分間に八千発の射撃と数千トンの空爆、夜は昼間のように明るく証明弾を何千発と打ち上げ万全の警戒体制をとった。
島がゆれにゆれ、あまりの凄さに島を占領するのではなく、島ごと海中に沈めにきたのかと思った。この戦場で最も悲惨で人間性を無視したのは、戦車への肉薄
攻撃であった。
 三月八日、海軍側の総攻撃で道に迷い、西戦車連隊の本部壕に紛れ込んでしまった。
その時、西連隊長から総攻撃を中止しろとの栗林兵団長から命令が下ったと知らされた。この説得で航空隊の兵二百名程合流し戦車隊の指揮に入った。
 西連隊長(中佐)はロスアンゼルスのオリンピックの大会で馬術障害の金メダルを取った西竹一中佐。私はその後、西中佐が自決する寸前まで行動を共にした。
 この戦場で最も非人間的で悲惨であったのは、M四戦車に対する肉薄攻撃であった。明日、戦車が攻撃して来ると予想される地点に三、四名一組として、五、六組毎夜出撃した。
明け方四時頃までに指定地に着き、その付近に散乱している友軍の戦死者七、八名をかき集めて、戦死者の腹を裂き、臓物を
取出し、自分の上衣のボタンをはずして胸のあたりに押し込み、またズボンの破れた部分から押し込んだ。
死体群の中に入ってあたかも自分が戦死者のように偽装した。
死者のギョロッとむき出した目の視線が鋭い矢になって皮膚を貫き、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。
その矢は幾千、幾万本にも感じられた。私は歯をくいしばってこの非人的で残忍な行動の汚辱感と戦いながら冷静さを失うまいと必死だった。段々と意識が混濁して生きているのか死んでいるのかわからなくなった。
 ふと首筋や顔を這い廻るウジ虫で我に返り、臓物を取り出された戦死者の身が明日の我が身か、戦死してもまだ死体となって戦闘を続けなければならぬとは、あぁ! これが戦場かと心の中で呪った。作戦自体末期的兆候だ。
 


posted by サゲ at 23:36| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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