2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(8)

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戦場体験証言(8)
  島田 殖壬 さん 
陸軍/1944(昭和19)年3月20日 志願/歩兵/レイテ島 

レイテ島 泥田、こんな惨めな死に方はしたくないと言いながら皆死んでいった

 
 私は昭和十九年三月二十日、現役志願兵として、当時十八歳で東部六部隊に入隊し、十日余りで満州国孫呉の歩兵一連隊で教育を受け、一期が終わる七月に第一師団動員令のもと、南方行きとなりました。
当時、行き先はまったくわからず、中国・上海から船に乗り、南下し、フィリピン・ラボックで原口大隊は上陸。
マニラを目指し、私の小隊は船でマニラ港に十月下旬に着き、上陸しました。
その頃、米軍がレイテ島に上陸して来て、守備隊の十六師団は全滅したそうです。 
 十月三十一日、第一師団は決戦師団としてレイテ島に急ぎました。当時、私たち兵隊は、実戦経験がない現役の兵ばかりでしたから、船上でレイテ島がどんな島かもわからず、一週間もすればまたマニラに帰って来られると気楽に話していました。
 十一月一日、オルモック港に上陸。三日進軍開始。昼ころ、P38戦闘機の空襲、機銃掃射で私は右肩を負傷。戦友からは不運な兵と言われながら行軍し、部隊がピナ山に登るとき、麓のロノイという部落に一人残され、小隊全員の背嚢を管理しているよう命令され、心細い限りです。
リモン峠方面の戦闘が激しくなり、歩一は下山を命ぜられ山から帰って来ましたが、また残され、後に私が前線に行くころは、戦場は死骸ばかりの有様。
死体は蒸し暑さのため、一週間もすると白骨化してしまいます。
後日、師団の土居参謀が「砲弾と肉弾との戦いでは、兵がいくらいても勝てる訳がない」と言うほど、砲弾が激しく落下してきます。
 私と増田(満州以来の戦友)が斥候に出たとき、道路向こうに米兵が上半身裸で作業をしている。距離は二十メートルくらい。二人で目配せして銃で射ち、当たったので大騒ぎとなり、反撃され増田は頭に一発。即死し、私は這って密林に飛び込み、走りました。
銃弾がバシバシと体を掠めていき、やっと小隊に戻り報告。明日はこちらに来ると思っていました。
その日の夕方、ガサガサと音がするので木の影から見ると、米兵の斥候が五〜六名、目の前に来ていて、目が合った瞬間、カービン銃で撃ってきました。
三八銃では一発。後が間に合わず、手榴弾を一発投げ、伏せていると手榴弾五〜六発が飛んできて、隣にいた兵二名が戦死し、敵は退いていきました。
数日後、師団は西海岸へ転進命令が来て、リモン峠を去り、カンキポットを目指し夜、行軍。食糧はなく、皆ふらふらの状態で、途中倒れて亡くなる兵も多数でる有様。
二千五百余人の歩一の兵も、リモン他で二千二百名くらい戦死。
三百余りが西海岸へ。内七十一名がセブ島へ転進。
その後、セブの戦闘で三十四名戦死。生還者は三十七名でした。
レイテ残留者は全員戦死しました。
 


posted by サゲ at 23:27| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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