2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(7)

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戦場体験証言(7)
  内田 宇吉 さん 
海軍/1944(昭和19)年2月 志願/水兵(水測)/駆逐艦『潮』/レイテ沖戦

 レイテ沖海戦。 駆逐艦が爆発、死体は手、指、顔が白蝋のように

 
 私は群馬の内田です。昭和十九年二月、十九歳の時、志願兵で海軍に入りました。
九月二十日、横須賀久里浜の対潜学校を卒え、同期の工藤君(十五歳)と駆逐艦「潮」に乗艦すべく瀬戸内海に向かい、二十九日に柱島沖で乗艦しました。
 乗組員は三百二十名。二千三百トンの優秀な艦でした。
十月十四日、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻で南方へ向けて出撃する。
そして艦長より訓示。「我が艦隊はフィリピン・レイテ湾に向い、米艦隊と決戦する。この戦いに敗れば、我が国はこの戦争に勝てない」と言われた。
馬公で燃料補給してレイテ湾に向け猛進する。日本艦隊の主力はボルネオより北上する「武蔵」「大和」以下の栗田艦隊と「山城」「扶桑」以下の西村艦隊。
 私たちの志摩艦隊は、この西村艦隊と合同してレイテ湾へ突き進む。それと、内地より空母四隻・戦艦二隻を主力とする小沢艦隊。文字通り、日本艦隊の全力を挙げた戦いだった。
二十四日真夜中、先行した西村艦隊がスリガオ海峡で米艦隊の砲撃を受け、駆逐艦一隻を残し全滅。
 真っ暗な前方二万メートルで「山城」と「扶桑」が真っ赤な火を吹きあげて燃えている。この戦いで、西村艦隊の戦死者は六千名以上と思われる。
また、この戦いで軽巡「阿武隈」が被弾し、九ノットで避退した。
「潮」は「阿武隈」を護衛して帰る途中、B24二十機に襲われた。「阿武隈」は爆弾数発が命中、大火災で沈没。乗組員七百五十名中三百名余りを救助してマニラへ。
 十月三十一日、陸軍・玉兵団を満載した輸送船四隻を護衛してレイテ・オルモック湾へ。兵員弾薬の揚陸中、敵大型機が襲ってきた。
至近弾で「潮」の魚雷頭部へ弾片が命中、燃え出した。急ぎ、これを投げ捨てて無事。
 十一月五日、マニラ湾空襲。姉妹艦「曙」が被弾。戦死傷者多数。
 十一月八日、陸軍・泉兵団をオルモックへ護送。またも大混戦。私は中部機銃の弾込めの応援。頭上に敵機の居ない時だけ気持ちが少し安らぐ。
この時、三千メートルくらい向こうにいた輸送船にB25が三機襲いかかった。マストに触れんばかりの低空で爆撃。水煙の消えたとき船は見えず。轟沈だ。この船にも陸兵二千名は乗船していたであろう。
 十一月十三日、マニラ湾空襲。湾内に二十隻くらいの軍艦、商船がいた。上空は敵機のみ。八時半頃、右上空より襲われ、右舷二、三メートルに爆弾が海底で爆発。海水が滝のよう。下から猛烈な蒸気で暑い。午後四時頃まで敵機は去らず。
夕刻、空襲も終わり、機関科二十三名の遺体をあげる。
なんと遺体の手、指、顔は小さく細く、白蝋のようだ。高温高圧の蒸気に二、三分吹かれると人体はこのようになってしまうのか。
以後、「潮」は片舷航海だった。この夜、マニラ出発。シンガポールで応急修理し、昭和二十年一月十四日、日本へ帰る。
 戦後の記録によると、一番多く使われる級(クラス)の駆逐艦が日本に百隻あり、終戦時に残っていたのは三隻のみで90隻以上が沈没した。
「潮」の戦死者は四十三名だった。
 最後に一言。戦争はその勝敗の如何を問わず、人類最大の愚行なり。 


posted by サゲ at 23:19| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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