2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(5

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戦場体験証言(5)
  佐藤 敏雄 さん 
陸軍/1940(昭和15)年12月1日 現役/香港マレー半島侵攻/歩兵(旗護兵)
 
ガダルカナルへ 270機の空爆に囲まれて強制上陸 ガタルカナル島の前後

 ただ今紹介されましたとおり、太平洋戦争開戦前より所謂野戦に居り、ホンコンの開戦十二月八日、戦勝入場式、次いでスマトラ島パレンバンの落下傘部隊支援、次いでカンテイ作戦又はその後の休養訓練の期間を与えられましたが、現役兵を長く遊ばせておく筈もなく、つまり当時陸軍が苦戦している所は、マレーのマンダレーか、南方の英語の島であると告げられ、其のいずれかの命令が出るまで輸送船上の人として毎日南瓜、南瓜のおかずで遊弋待機したが、なんとなくマンダレーよりまだ激戦地で、生きて帰れないように感ぜられ、夜甲板上で内地より持ってきたお守りを拝み、武運長久を祈り、父母妹たちに達者でなーと語りかけた。
 その後まもなく、進行目的は、ガタルカナル島と明示され、南下をはじめ、急に周辺は殺気立って来た。先ずはニュウブリテン島ラバウルへ到着した。
 ラバウルに着いた船団は確か数隻だったが、其の船を別れ、新造船に乗り換え、またまた、洋上乗り換え、普段だったら二千人は乗せる一万三千トンの広川丸は10分の1の200人、つまり連隊本部、連隊砲、通信隊だけ、積荷も揚上陸用機材と少量の食料弾薬のみ、つまり極力船足を軽く、連隊長と軍旗は当然船橋の高いところ目まぐるしく出る命令、大声の号令指示のなか、広川丸は島影に隠れ敵機を避け夜を明かし、緊張の連続であったが、十三日の金曜日は外人の忌み嫌う日だから、其の日を選んで侵攻するだろうと我々は想像しあっていた。
 一応は出向したが引き返し、島影に、行き詰る雰囲気のなか、十四日各島影から急速に集合南進する我が陸軍は十一隻、護衛駆逐艦は二十五隻合計三十六隻が白波を全速南下する様は、流石大本営直轄作戦は凄い、これなら必ず勝つ、私は裸から軍装を整え加給品のタバコを隊内に分けていた。
 甲板へ出てはいけない! との命令が喧しく放たれているなかーー全く凄まじい落下音、炸裂音、爆弾命中である!! 悲鳴、痛いよう!、 一面の火災、私は小学校の広瀬中佐、木口古兵の『死んでもラッパを放しませんでした』を瞬時に思い、俺は旗護兵!軍旗と共に!軍旗! 船倉から軍旗の有る船橋は、甲板も火の海で大破壊黒煙で目も見えない、ようよう辿り着くと聯隊長は一人で、しかも顔面負傷しているが、連隊旗手はどうしたか? 戦死とわかり、他の海上は敵航空隊の大空襲、魚雷爆弾銃撃!! 十月十四日午前十一時四十分、ラッセル島北北西二十海里敵機延べ二百四十機の猛攻で、わが船は沈没航行不能、広川丸と外一隻のみ翌朝ガ島に到着、軍旗も我々は勿論飛び降りてガ島の人となった。
  戦争は勿論もうやってはいけない。がしかし体力気力忍耐は平和主義の美名にかくれて鍛える場、時間を作らねばならない


posted by サゲ at 23:13| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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