2009年10月27日

山高定三さん(10月の定例収録会)

毎月第3日曜日午後1時半〜、滝野川史料館では公開の収録会を開催しています。
今月証言してくださったのは、山高定三さん(84歳)。
日比谷集会の直後という事もあり遙々大阪からや初参加の方にも多くご参加頂き、小さな史料館はすし詰め、陣取りに乗り遅れた私は階段の裏でお話しを聞くはめになりました。
09年10月収録会
最後に証言者を囲んで恒例の記念撮影(少し人数減ってます)、こんなならもっとお洒落をしてくるんだったと残念がっておられました。

山高さんは満州で敗戦、その後3年間のシベリア抑留をご経験されています。
「年が明けて1月末に最初の犠牲者が出た。最初は死者が出るのは数日に1度だったが、2月に入ると毎日死ぬようになった。」


山高さんの御証言の続きを読む

2009年10月17日

孫子とクラウゼヴィッツ

いわゆる課外授業。
縁あって、日本クラウゼヴィッツ学会主催の「孫子とクラウゼヴィッツにみる「政治と軍事」の関係」と題するセミナーに参加させていただいた。
時代背景によって変わる両氏の解釈など、普段は兵士のお話を主に聞いているので今日のセミナーでは新たに感じる部分があり、大変勉強になりました。
posted by サゲ at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

金田満郎さん (昭和13年志願:歩兵:北支:重機関銃)

証 言: 金田満郎さん 
取材日:2009年10月11日
主な軍歴
1921(大正10)年2月3日生まれ
兵種:歩兵(重機関銃:92式重機関銃)
最終階級:曹長 
▲1938(昭和13)年12月 志願 第8師団歩兵17連隊第2機関銃中隊
▲1939(昭和14)年6月  第108師団歩兵117連隊補充要員として北支へ 山西省での警備と討伐
▲同年 11月 独立混成16旅団独立歩兵84大隊へ 保和村の警備 
▲1940(昭和15)年 下士官候補生に、卒業後原隊復帰
▲同年 中原会戦  黄河唯一の渡河点の占領を命じられるが猛反攻で多数の死者を出す
▲1941(昭和16)年1942(昭和17)年    分遣隊長として七洞村、普洞村、上梁村などの治安・警備  回帰熱に罹患
  1942(昭和17)年初年兵受領のため一時帰国 
▲1944(昭和19)年  万泉方面に移駐、爆破撤退
▲1945(昭和20)年 春  中支江蘇省の守備に移駐
▲同年 秋 現地で軍籍を離れ一般人として上海より第1回目の引き揚げ船で帰国
091011_03.jpg

2009年10月10日

少飛会慰霊祭

091010_01.jpg


10月10日の今日、元兵士の会の関さん(少飛11期)のお誘いで保存会若手ボランティアの有志4名が少飛会慰霊祭に参列させていただきました。
200名近い参加者がありましたが、聞いてみると前年の半数との事。
最年少者でも80歳代を超えています。
健康上の理由から慰霊祭に参列できる方が少なくなって戦後64年という年月を改めて感じました。
091010_02.jpg

慰霊祭が始まるまで若手ボランティアは様々な元少年飛行兵の方とお話ができました。
091010_03.jpg

関さんの計らいで慰霊祭終了後の直会にまで参加させていただきました。
posted by サゲ at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

Welcome to Japan Veterans Video Archive Project!

Sorry, we are preparation pages in English and German!

"Help Wanted! - Volunteers of written translation."


Japan Veterans Video Archive Project
Tokyo Office

tel: +81 3 3916 2664
fax: +81 3 3916 2676
email:  senjyou@notnet.jp
blog: http://keepast.seesaa.net/

6-82-2 Takinogawa Kita-ku
Tokyo JAPAN
postal code: 114-0023

2009年10月04日

戦場体験史料館新パンフレット

siryoukan_01.jpg siryoukan_02.jpg


現在配布中の戦場体験史料館パンフレットの在庫がなくなったため、一部リニューアルした戦場体験史料館の新パンフレットを作成いたしました。
来週の連休明け以降に仕上がる予定です。
※上画像はペラの状態ですが、完成品は三つ折のパンフレットとなります。

posted by サゲ at 22:14| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

拡大事務局会議

091003_162835.JPG

昨日の土曜日、滝野川事務所に元兵士&若者ボランティアが集まって拡大事務局会議がありました。
日比谷集会(あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い)の報告と総括、今後の活動について老若さまざまな発言や提案が飛び交いました。

なにはともあれ、がんばろう。
posted by サゲ at 15:31| 日記 Staff diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月03日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言

h_book.jpg

全18名の戦場体験を掲載させていただきました。
掲載内容は、事前に証言者から寄稿していただいた原稿です。
当日の証言内容と異なる場合がございますことをご了承ください。
また、当日は体調不良などにより
証言(1)室井さん
証言(6)岩谷さん
証言(10)大曲さん
上記の三名はボランティアスタッフによる代読
証言(11)嶺井さんは沖縄からのビデオメッセージ
証言(15)川崎さんは時間の都合上割愛させていただきました。

戦場体験放映保存の会ではこれらの戦場証言をまとめた冊子を一部500円にて販売中。
証言に加え、軍歴とミニ解説、写真、地図を掲載しています。
※売上金は全て戦場体験資料館・戦場体験放映保存の会の活動資金となります。
メール(senjyou@notnet.jp)にてお問い合わせの上、発送先をご連絡ください。

発送方法:ゆうメール(冊子小包)にて発送させていただきます。
      (郵送料の目安:1冊210円、2〜3冊290円、4〜7冊340円)
お支払方法:冊子に同封の郵便為替振込み書に記載の料金を最寄の郵便局窓口にてお振込みください。
posted by サゲ at 10:39| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(18)

hibiya_18.jpg

戦場体験証言(18) 
坂本 初枝 さん 
従軍看護婦/1946(昭和21)〜1958(昭和33)年4月/中国 昭和33年復員

看護婦として中国共産党軍に徴用、野戦病院へ

 
 私はハルピン市で終戦を知りました。終戦の年の九月、私が勤務していたハルピン市満鉄病院にソ連軍がやって来て、病院の強制接収が始まりました。
ソ連軍の命令の中に、「患者全員を退院させよ」というのがありました。
問題は動けない重症患者をどうするかということです。病院上層部から安楽死の指示が出されました。
 二人の例をお話します。
一人は私の同期の看護婦が重度の結核で入院していました。妹の手でモルヒネを打ちました。
二人目は関東軍少尉の新妻です。同じく重症の肺結核でした。ある日、少尉が来られ、私共に花嫁衣装を手渡され、自分は部隊と行動を共にする。もう妻の元には来ることが出来ません。よろしくお願いしたい、と挙手の礼をして帰られました。私たちはぎりぎりまで看病しました。でも時間が来てしまいました。
新妻に花嫁衣装を着せ、お化粧して、そしてモルヒネを打ちました。
二人とも、病棟近くの防空壕に寝かせ、土をかけました。
私共には重症患者をソ連軍の渡すことは絶対出来ないことでした。
 昭和二十一年四月、人民解放軍に依り、かなりの日本人医療関係者が強制抑留されました。
当時、中国国内戦が拡大しつつあり、野戦病院の必要性が高まっていたのです。
私は兵站病院に配属され、すぐに八〜十二時間の夜行軍が始まりました。
昼間患者の手当てをし、夕方になり後方病院に送り出す。私たちは前線部隊を追って夜行軍。こんな情況は四年も続きました。
薬品不足、材料不足の中で、私たちは出来る限りの努力工夫で患者の手当て、救命活動をしました。
自分たちの睡眠時間を割いて材料の用立てをしました。
負傷兵には輸血の必要な者もいます。中国人は血を人にやるなどありえないのです。私は自分の血を四回輸血しました。
食欲のない患者に、自分のお金で食べられそうな物を買ってきて食べさせたことも。便秘で苦しむ患者を助けるため、自分の指に油をぬってかき出したことも。浣腸器なし。
 日本人は患者に常に声を掛け、不安を取除くと同時に、病気の変化を早く見つけて処置するなど、常に努力しました。
日本人の中にも病人は出ました。しかし、休養も充分とらず職場に出て病人の治療にあたりました。
私共、日本人は本当に働きました。中国幹部職員患者も、あなたたちは、どうしてそこまで出来るのか?と言っていました。
私共、医療関係者は中国医療関係者に、お手本になれたと思っております。
私の気持ちの中には、日本軍国主義が中国で犯した罪に対して、一日本人として申し訳ない気持ちと今、罪のつぐないの一つをしていると思っていたような気がします。
posted by サゲ at 09:09| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(17)

hibiya_17.jpg

戦場体験証言(17) 
岡野 工治 さん 
陸軍/1943(昭和18)年10月20日 学徒招集/航空兵(特別幹部候補生)

 
シベリア抑留 私がパンを分けなかった戦友の死が胸をえぐる

 
 私はシベリア抑留者として四年間を経て祖国日本に帰国した。
ひとくちに言うなら、寒さと飢えと栄養失調で多くの仲間を失った当時の兵隊の平均年齢は二十三〜二十四歳だったが、特に三十歳、四十歳代の兵隊は年老いた七十〜八十歳代に見えた。それほど一週間くらいの激戦と、終結地までの百キロの徒歩行進で見も心も疲れ果てていた。
 さて、私は陸軍の特攻隊員で、同期生の半数、四十八機が沖縄と台湾沖で隼戦闘機もろともに自爆し、戦死していったのでした。
その後、旧満州北部のチチハルの飛行場で敗戦になり、昭和二十年十月二十三日にハバロフスク州テルマ地区の二〇五収容所に抑留されました。
さきほど話した通り、六万五千名余の抑留死亡者の三分の二、四万二千名が抑留の一年三ヶ月で亡くなり、当初、寒さと飢え、栄養失調でした。
 本日、私に与えられたのは抑留のことでの想いとのことですので、今現在でも忘れ得ない、いわば墓場まで持って行く気持ちであったことを申し述べます。
 私の生まれは新潟の山村です。秋十一月から翌年の四月まで暖を取るため、いろりに毎日薪を多く燃やすので、大量の薪を焚くので、十月中、山林に行き、四、五日かかって薪作りをするのです。父から小学校五、六年と中学生時代教えられたことが役立ちました。
シベリアの収容所では我々を管理するロシアの十五世帯の家族がいまして、薪作りの名人と言われるほどで可愛がられました。
宿舎へ帰る時には、「ありがとう」「優秀作業員」と言って、一キログラムの黒パンをくれました。
 宿舎では十時には就寝となるので空腹と疲れで寝込んでしまうので、私は毛布をかぶり、黒パンを音を立てないように食べました。
それから十日後の朝六時起床に、一つ置いた隣の仲間が冷たくなって亡くなっていました。栄養失調でした。
 私は六十四年前のその事が、罪の意識で今でも忘れ得ぬ、誰もが知らないことなのです。
その事があって、反省として私はシベリアへの遺骨収集に四回、墓参団の案内に八回、進んで参加しております。
 今思うことは、「満州侵略さえなかったら」シベリア抑留がなかったのだと。
もっと突っ込んで言うならば、戦争がなかったならと思うことしきりです。
戦争には飢えがつきもの。飢えほど人間性を失うものはない。まったくエゴの固まりとなり、愛という人間の知性も倫理も投げ捨てるのだと私の一生のうちで、この事が大罪であり、脳裏から消え去ることはないであろう。
なぜならば、六十四年前に間接殺人を犯したからです。
 したがって私は、その反省に立って日本国憲法九条、「再び戦争をしない」「人間を殺さない」「武器を作らない」「武器を持ち込ませない」「武器を輸出させない」。これが私のシベリア抑留に思うことです。
「なぜ、空腹の彼に黒パン半分を与えなかったのか?」をと・・・
posted by サゲ at 09:03| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(16)

hibiya_16.jpg

戦場体験証言(16) 
加藤 正寿 さん 
陸軍/1944(昭和19)年12月1日 現役入営/歩兵(機関銃) シベリア抑留

 戦友は飯盒を握り冷たくなっていた

 
 昭和十九年十二月、東部六部隊に入隊。同月、北支に向け出発。
到着後、三ヶ月の初年兵教育を受ける。教育終了後、昭和二十年四月に三ヶ月の南陽作戦に参加、戦争の恐ろしさと厳しさを十九歳にて体験した。
六月に新郷に帰還、即、満州白城子に転進。我々、二百四大隊は郊外に陣地を構築。ソ連軍の戦車が来襲してくるとのことで、我が中隊は爆薬を持って戦車の下に飛び込むよう命令が下った。
待機していたが、早朝に旅団命令にて急遽、泰来(タイライ)に転進。八月十七日、天皇陛下が海外に終戦の布告をしたと聞かされ、皆、唖然とするばかりであった。
その後、新京にて武装解除され、ソ連軍の指揮下に入る。
 千五百名の部隊が編成され、シベリア鉄道にて田舎町ハラグン駅下車、約十キロ行軍。
九月というのに、そこは銀色に輝く山腹。柵だけに囲まれた原野、雑木林の空間に収容され、雪の降る中、抱き合って一夜を過ごす。
翌日より昼間は伐採、夜は焚火をし、一ヶ月がかりで収容所として半地下の宿舎を建てる。
八ヶ月間、早朝より深夜まで毎日、伐採作業に黙々と従事。
この間、食糧不足と重労働のため、栄養失調により約四百名の戦友が死亡した。
 山脈の密林は無限に続いて、それは切れども倒せども永遠と続いており、一山伐採が終わると次の山が控えている有様で、ある者は枝に打たれ骨折し、又ある者は木の下敷きになり頭を割られ死亡。
 捕虜に与えられる食事は朝三百グラムの黒パン、昼と夜は燕麦のお粥飯盒四分の一と大豆のゆでた豆三、四十粒。その日のノルマが終わらなければ収容所に戻れず、体の弱い者は帰りが深夜になり、翌日早朝より作業となる。
当時は自分一人生きぬくことが精一杯。あの雪原の中の過酷な強制労働、そして極端な食糧不足で尊い生命を失った戦友はどうして浮かばれましょうや。
 松葉を布団代わりに敷き毛布一枚外套をかけ、虱と寒さと餓えに震えながら夜も寝られず、夜が明ければ「ダワイ(早く)、ノルマ」と夜が更けるまで働かされ、戦友は毎日のように三人、五人と死んでいった。
 早く帰国したいと枕を並べていた戦友が、次の朝、飯盒を握りしめ冷たくなっていた。
死んだ戦友は丸裸にされ零下三十五度の原野に穴も掘らず、雪を被せたままでの残酷なものであった。
戦友に心安かれと祈るばかりであります。
悲運にも彼の地に仆れし幾多の戦友を偲ぶとき、唯々、断腸の思いです。
 日本のその筋の方々が本当に真剣に折衝していれば、墓参、遺骨収集も、もっと早く実現可能な運びとなったと思います。
 このような飢餓地獄の生活を体験した者として、幾多の方々を代表して政府の扱いに納得できず、戦後処理が終止符を打っているとは思えません。以上が私の体験談です。
 
posted by サゲ at 08:58| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(15)

hibiya15.jpg

戦場体験証言(15) 
河崎 春美 さん 
海軍/1943(昭和18)年12月  志願/海軍甲種飛行予科練生/人減魚雷回天

 幻の回天特攻 敗戦後、幻の特攻準備の事故で111名が死亡

 
再開の特攻
 元第二十三突撃隊
回天搭乗員 河崎春美
 本来ならば潜水艦で出撃する回天作戦だが、私は本土決戦間近となって、六月土佐湾梢々南西の須崎に本部を置く第二十三突撃隊回天搭乗員として進出、敵の来攻を待機していた。
八月十五日の終戦放送は雑音と共に流れ、その直後に行われた午後の課業整列で司令から初めて知らされたが、上層部も対策指導に困窮し、決して逸まった事をするなとしか指示が無く、茫然お先真っ暗となっていた。
 その翌日夕刻になって突如「米機動部隊が土佐湾沖に現れ、来襲の模様」の入電に特攻の再開だとばかりに勇み立っていた。
その電報を、決戦体制に入れと解釈したのが、我が二十三突撃隊の手結基地配備の震洋突撃隊で自動車エンジン搭載の特攻艇で今では想像も出来ないだろうが、当時は不調なときにはプラグを外し火花の状況を調べていたが、プラグの火が漏れていたガソリンに燃え付き、爆薬を搭載していた艇に火がついた。
そこで全員壕を飛び出し、暫く警戒していたが、爆発が起こらなかったので壕内に戻り出撃準備に掛かったところ、加熱されていた火薬の爆発が発生、搭乗員・整備員等百十一名の生命が一瞬のうちに失われてしまった。
この状況が附近に駐在していた陸軍部隊から大本営に報告され、「沿岸特攻部隊が敵機動部隊を迎撃、戦果拡大中」となった。
敵機動部隊は漁船群の誤りであり、全くの幻の特攻であったが、終戦の混乱が招いた惨劇であり、敵襲ではないので、戦死ではなく殉職となった。
東北・北海道出身者も多く、その遺族達は遺骨引取りの汽車の切符が入手困難で、年末頃に漸く整理できた様な始末だった。
一時は、私達回天搭乗員は電報通りであれば戦死扱いとなっていた。
出撃順序が震洋より早い第一次出撃となっていたためで、幻の出撃であったため、今日まで生かされることとなった。
 戦後発生の最大の悲惨事であった。
 
posted by サゲ at 08:53| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(14)

hibiya_14.jpg

戦場体験証言(14) 
今村 真 さん 
陸軍/1944(昭和19)年3月1日 志願/満州(新京)/砲兵憲兵

 関東軍満州撤退 司令部、憲兵隊は、邦人を残し、8月20日内地上陸

 短歌一首
  司令部は 家族をさきに送還す残されし邦人 すべて難民
 八月九日深夜、ソ連軍機の奇襲により平和な満州は一挙に戦場となる。
私の所属した関東憲兵隊司令部科学偵諜班は将校・下士官・軍属二百余は、あわただしく出勤、臨戦態勢に入る。
 八月十日、新京憲兵隊より「関東軍司令部、関東憲兵隊関係家族は、引揚のため正午までに新京駅に集合せよとの命令あり。
「目下集合しつつあり」との連絡があった。
「家族は軽装、食糧は三日分の米と副食物、必要な衣類を携行十日正午までに新京駅に集合」・・我が隊の将校、下士官の家族及び女子軍属は、輸送指揮官の指示により午後一時頃より新京駅に集合した。
しかし、この列車は、満鉄側から軍だけが勝手に使用しては困るとの苦情が出て十一日早朝に出発した。
引揚途中、困難はあったが先頭の人達は八月二十日に内地に上陸している。
後日、全満に散在している部隊より、我々の家族を見殺しにしたとの非難があったが、引揚げを指示善処することが出来なかったとは司令部員の言訳である。
 軍内部のイザコザはいざ知らず、全満には百数十万の在留邦人がいた。それらを守るべき総司令部は家族を優先疎開させ、南満の通化に司令部を後退し、前線で闘っていた部隊は指揮系統を失い混乱した。地方にいた
邦人こそ見捨てられて大混乱になり、残留孤児らの悲劇が生じた。
民を守るべき軍が自己の家族を守りたるさま、軍の堕落ここにきわまる。
 さて私の所属した関東憲兵隊科学偵諜班、通称・司令部四班は、昭和十四年八月一日、ノモンハン事件の最中、創立された。
創立の趣旨は敵性諜報・謀略に備え、無線探査と科学捜査、鑑識によって原因を糾明し、あるいは検挙したスパイを培養して敵の企画を諜報し、作戦計画に役立てるなど、その任務は極めて重大であった。
戦争には武力戦と秘密戦がある。武力は一般軍隊が行い、秘密戦は憲兵、特務機関ならびに特殊部隊がその任に当たる。
 満州国は日本の武力によって独立国とはなったが、周辺は四千キロすべてが敵国であり、また三千万満州人も反満抗日分子が多く、隣国の朝鮮民族も金日成らを主体とした排日抗日の活動あり、華北と称する中国との隣接地域には、中国共産党指揮下の八路軍、国民党軍あり、さらに加えてソビエト軍からの諜報謀略あり、スパイと諜報員が四千人はいると推定されていた。
これらの分子との秘密戦は目には見えない重要な、しかし地味な任務であった。
posted by サゲ at 08:49| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(13)

hibiya_13.jpg

戦場体験証言(13)
 松倉 一悦 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月 現地招集/輜重兵/北満州・孫呉/シベリア抑留

 ソ連参戦 急造爆雷を抱き特攻待機、戦車は一つ向こうの道を行った

 
 昭和二十年三月、北満・孫呉の輜重部隊に現役入隊しました。入隊後はソ連との開戦に備えて毎日塹壕堀りと敵戦車を破壊し、擱座するための飛込訓練でした。車力を戦車と見立てて必死の訓練でした。
 八月十四日、ソ連軍が黒河方面より侵入の報で、初年兵で斬込隊を編成し、黒河方面へ出撃しましたが、全員部隊に帰隊せず生死不明でした。部隊に残った初年兵は私たち二、三名のみで、飛込特攻要員として志願待機していました。
敵戦車近接の報により、進入しそうな各道路に配備されていました。
 急造爆雷は約四十センチ角の木製の箱で、信管と第二ボタンを紐で結び、腕を伸ばせば瞬時に爆発し、粉微塵となります。飛び込みのタイミングと、キャタピラの下敷きになると同時に腕を伸ばすことが、敵戦車を擱座させ破壊できるのです。
 爆雷を胸に抱き、待機して、ふと空を見上げると空は真青で、生死を超越した澄み切った気持ちで待機していました。ただ、今まで親孝行をしなかったことを心の底より深くお詫びしました。
 近隣の道路で激しい機銃音、爆発音と黒煙が見えましたが、敵戦車はいくら待っても来ず、他の道路に進入したので、部隊に帰るよう連絡があり、直ちに帰隊しました。十五日の夜、重大発表があるから待機の指示があり、終戦となったので自決、逃亡各自の判断に任すということでした。部隊宿営地で疲労困憊の果て寝込み、翌朝目を醒ますと人影もなく、呆然自失でありました。
 ウロウロしていると、召集兵とおぼしき老人兵があちこちから三、四名現れ、みんなどうして良いか判らない状況でした。
協議した結果、ともかく南下しようと決まり、そばの自動車に乗り、興安嶺の山々を乗り越えようとした時、ソ連機と遭遇し、爆撃と機銃掃射を受け、一名が行方不明となりました。
さらに南下すると、小興安嶺の街はずれで道路が爆破され通行困難でありましたので、運転者を除き全員下車し、破壊された場所を避け、車の先頭を縄で結び、土手から落ちないようにゆっくり進行させることとなり、私が先頭になり引っ張りました。
運転者がブレーキとアクセルを踏み違え急発進したため、引っ張っていた縄がたるみ、ひっくり返った私の胸、肩、手の上を通り、私は絶息状態となり、七転八倒し、あまりの苦しみで射殺しようしたところ、何かのはずみで息を吹き返したので、荷台に乗せたと後で言われました。
 更に進行したところ、道路の鉄橋が破壊され通行不能となり、引き返して鉄道の鉄橋を渡って南下することとなり、君を一緒に連れて行くことは無理であるので、この駅に置いていくから最終の迎えの貨物列車が午前二時ころ迎えに来る予定だから、それに乗って北安まで行きなさいと言われ降ろされた。
駅舎の中は無人で、近所の開拓団の家の押入れに隠れ休息していた。
真夜中に汽笛の音がし、急いで貨物列車のところへ行ったが、乗り口が高くて肩が効かない私には乗れないので、満人に頼み乗せてもらった。
あまりのことで直ぐ寝込み、目が覚めると北安に着いており、誰もいなかった。
 北安に着いて二、三日後、ソ連軍が到着し、捕虜となった。収容所は野戦倉庫の敷地で、軍人と開拓団の婦女子でゴッタがえしであった。
 我々軍人は、北安から黒河まで徒歩で逆送され、野宿で寒さと雨と風で多くの兵士が死亡した。
黒河の対岸ブラコエチンスクへ渡り、貨物列車で南下し、エジベストコーガヤ近郊の山林の中の収容所で生活した抑留中は、山林伐採、線路工夫などが主な作業で、ノルマ制は伐採で、身体障害者のためノルマが達成出来ず、食事があまりにも少なく栄養失調となり、昭和二十二年九月、帰国できました。 
posted by サゲ at 08:42| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(12)

hibiya_12.jpg

戦場体験証言(12) 
久保 四郎 さん 
陸軍/1945(昭和20)年5月 志願/歩兵/満蒙開拓青少年義勇軍

 満蒙開拓義勇団 14歳で志願、戦死した中隊長の首を持ち帰る

 
 昭和十六年、大東亜戦争勃発。当時、高等科二年生の十四歳、米英に宣戦布告を聞く。翌年三月卒業、進路選択に母が反対する大陸雄飛に燃えていた私は、新天地に飛行機で迎えに来るからと説得、内原満蒙開拓義勇隊訓練所に入所した。
 渡満まで二ヶ月間、軍事教練と開拓の修業。団体生活に厳しい教育を受ける。五族協和をスロウガンに敦賀より羅津経由で満洲国黒河省嫩江県八洲訓練所に入植し、三年間軍事教練と開拓に精魂を傾け卒業時には全満一の優秀中隊として表彰を受け、現地に第一次八洲開拓団と合同第五次八洲開拓団として入植した。
 訓練中の建物耕作地その他そのまま使用され移行時の困難は皆無で幸先の良い発足でした。
 兵役を控えて同年配なので段階に分け令七志願兵を募り先陣として徴兵より早く帰り開拓に専心するよう方針がきまり、体格の良いもの八十名が志願する。
五月にはそれぞれに令状がきて各部隊出征していった。歩兵で孫呉の一五二〇四部隊に入隊。拓友八名が同じ班に入り、まるで八洲にいた気分で小隊長していたので皆を引っ張り、上司から開拓団を見習えと注目されていた。
 一期の検閲間近に孫呉地区に挺身隊「突撃隊」が編成、派遣された。仲間と別れ一人寂しく旅立った。
 八月九日、突然ソ連軍の参戦に関東軍は右往左往。たった一機の飛行機に翻弄され。司令部は爆撃で破壊され各兵舎も炎に包まれ逃げ惑う兵士には機銃掃射が浴びせられ、タコ壺に逃げ込み難を避ける状態だった。
 そんな事態に突撃隊の出撃命令が出た。大隊長露木大尉の率いる大半の人が、一夜の戦車との遭遇戦に全滅に近い打撃を受け、後退してきた残留組の私たちにも敵の野砲陣を爆破せよとの命令に壮徒に着く。
機関銃一丁だけが重火器、三八式歩兵銃。五キロの爆雷と手榴弾。新兵は木銃の先に銃剣を縛りつけ白兵戦に対処するよう諭され任務につく。相手は三〇連発の自動小銃。前方五〇〇米木立の間を縫うように接近してくる最後の白兵戦になつたら相手も道連れにと臍を噛む。隊長の引き揚げ命令に一目散、戦場を離脱出発時の陣地に戻る。
中隊長は戦死したので首を落として持ち帰る。戦友一名は足に銃弾受け歩行困難におちいり自爆する。
 こうして戦闘は終わり、翌日の八月十八日武装解除があり銃を捨ててソ連の捕虜となり、九月十五日黒竜江を渡りシベリヤに抑留される。ギルタの炭鉱に入り先山・後山の経験もし、二十二年八月舞鶴に帰国。
 こんなみじめな戦争は二度としてはならないと肝に銘じ、戦後の諸氏に訴えるを目的にこの会に入会する。
posted by サゲ at 08:35| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月02日

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(11)

hibiya11.jpg

戦場体験証言(11)
 嶺井 巌 さん 
陸軍/1945(昭和20)年3月1日 招集/沖縄駐屯軍 球七〇七二部隊入隊/砲兵 

米戦車隊の火炎放射器の攻撃に合い後方へ転進 頭に迫撃砲を受け即死した母の胸で、乳を求めて泣きわめく乳児。悲惨。

 
 私は現在、東洋一と言われている米軍・嘉手納航空基地からの殺人的爆音被害に、心身を痛めつけられながらの生活を余儀なくされている者の一人でございます。
 私は昭和十七年、沖縄県師範学校に入学。
昭和十九年(満十八歳)の三年生で在学中に、日本帝国軍人の最後の徴兵検査を受けさせられ、甲種合格現役兵のレッテルを張られ、翌年の昭和二十年三月一日、沖縄駐屯軍、球七〇七二部隊に初年兵として入隊。
僅か一ヶ月の初年兵教育を終え、二十二名の初年兵は、四月から分隊に配属され、分隊内務班活動でしごかれ、日夜の陣地構築、壕堀に明け暮れました。
 四月一日、米軍の沖縄本島上陸(中部の北谷、嘉手納海岸から)により戦闘も激しくなり、日本軍は真正面からは戦わず、洞窟陣地に潜んでのモグラ戦術となり、加えて軍司令部はいち早く摩文仁に撤退、多くの住民を巻き込んでの戦闘となり、二十三万余の尊い生命を犠牲にした人類史上の最大悲劇となった。
 五月の中旬となり、私たちの小隊は前線への出勤命令を受け、米軍との接近戦の激しい宜野湾市の高地に到着したものの、米軍の榴弾砲の一斉射撃を受け、住民も自分たちの壕が破壊され、壕を飛び出し逃げ場を失い、バタバタと倒れ、たちまち死骸の山が築かれ、私たち分隊も、その阿修羅の場から一旦別の地点に転進したが、すぐ命令が下り、
「○○小隊は那覇市安里方面の敵戦車隊への肉迫攻撃に突入せよ」
安里へ移動したものの、敵は泊を通り、那覇駅方面へ進行中。直ちに迂回して那覇駅へ。わが小隊も暗闇の中を那覇駅東側へ到着。
敵戦車隊と対峙したが、敵戦車隊の戦車砲撃の一斉射撃に、わが小隊は隊長命令で、具志頭村の中隊本部の駐屯する安里部落に三日後に合流した。
 六月十二日、わが小隊(分隊)は、那覇方面から攻めてきたであろう敵戦車隊に対する監視の任務に着いた。
この日一日中、戦車隊の動きはなかったが、翌十三日は、早朝から米兵は戦車周辺で動き回る活動を始めた。
私たちは、ただ見張りだけの立哨を続行していたが、午前十時頃、十台くらいの戦車から一斉に、機関砲・機関銃の射撃が開始され、わが監視哨はこの敵情を中隊本部に報告。それが終わらぬ中に全戦車が安里部落に向かって進行。
ものすごい爆音と地響きをたてて三十メートルくらい進んだと思うと、ピタリと停止。
次の瞬間、全戦車一斉に火炎放射器から「ボアー、ボアー」と火炎が吹き出し、安里部落の屋敷をメラメラと焼き払った。
その凄まじい攻撃に、わが分隊監視隊員は分隊長の命令一下、部落の反対側へ退がったが、分隊員は散り散りになり、夜になって五、六名が顔を揃えた。
中隊本部からは「この地域の戦闘で生存した者は摩文仁に集結せよ」との指令があったので、集まった六名は摩文仁へ退くことを申し合わせて、暗闇に乗じて出発しようとした途端、迫撃砲の攻撃を喰い、私は左足大腿部に盲管銃創を負い、他の隊員と行動をすることが出来ず、ひとり取り残され、翌朝から足を引きずり、地をはいつくばっての単独行動となり、十日くらいかかって、やっと真壁村にたどり着き、とある製糖小舎の入口に来た。
中は足の踏み場もない、一般住民の負傷した避難民で大混乱。
「いたいよー」「水をくれー」「殺して、苦しい」とわめき声。
私は日本兵でありながら、戦うこともかなわぬ逃亡兵である。肩身の狭い思いをしながら片隅にうずくまった。
夕暮れ時になり、別の部隊に入隊したという初年兵が息せき切って駆け込んできて、
「おいみんな、ここは危ない所だ。歩ける者はほかの場所へ移るんだ!」と言うのも終わらぬ中に、迫撃砲の集中弾を浴び、中の負傷者たちは更に多くの傷を負い、左腕に傷を負って、右手に乳呑児を抱えていた母親が、頭に直撃を受け真赤に血をタラタラ流して倒れてしまった。
とっさの出来事にその乳呑児は、母親が即死したのも知らず、「ギャー、ギャー」と泣き喚きながら、胸から顔をあたりに母親の血のりを受けて乳を求めて動いている悲惨な情景は、地獄そのものだ。
どれ位の時がたったか、あの初年兵に急き立てられ、二人で百メートルくらい離れた民家の庭の避難壕へ入った途端、迫撃砲弾によって製糖小舎は爆破、焼き払われた。中にいた動けなかった避難民はどうした?あの真赤な血のりを浴びて泣き喚いていた乳呑児は?その安否を気遣わずにはいられなかった。
 翌六月二十六日の朝、初年兵二人は捕虜となり、歩兵に誘導され、奇しくも昨晩焼き払われた製糖小舎の側を通りかかった。黒焦げになった焼け跡には、傷つき動けなかった人々の無残な焼け焦げた姿が横たわっていた。
もしや、あの血みどろになっていた乳呑児の姿は?と見回せど、その姿はもうどこにも見当たらない。ただ焼け跡の灰燼の中から、うすゆらぎ立ちのぼる煙は、犠牲になった人々の冥福を祈るために手向けられた香の如く思えて、思わず合掌した。
 この手記を書いている手もふるえ胸がしめつけられる。
日本全国の皆さま、真の日本国の平和を愛する皆さま、二度とこのような悲劇が起こらないよう生存者の私たちは固く心に誓い、犠牲になった多くの国民の御霊のご冥福をお祈りし、今の「世界の誇るべき平和憲法」を守り抜くことをお誓い申し上げまして、私の報告といたします。 
posted by サゲ at 23:41| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(10)

hibiya10.jpg
戦場体験証言(10)
 大曲 覚 さん 
海軍/1943(昭和18)年10月1日 飛行機整備科・海軍予備学生/硫黄島 

硫黄島 戦死者の臓物を被服に付け死体のふり

 
 太平洋戦争中、戦略の要点であった海洋の島々は「不沈空母」と呼ばれていた。硫黄島はこの名に最もふさわしい島であった。
東西幅の広い所で4キロ、南北8キロ、周囲17・8キロ、これは箱根の芦ノ湖と同じで、真青な海上にポツンと浮かぶ姿はまさに白波を蹴って走る「不沈空母」と呼ばれ、日米双方にとって最も重要な島であった。
 米軍はこの小島に上陸前三日間、三百の艦船から三十分間に八千発の射撃と数千トンの空爆、夜は昼間のように明るく証明弾を何千発と打ち上げ万全の警戒体制をとった。
島がゆれにゆれ、あまりの凄さに島を占領するのではなく、島ごと海中に沈めにきたのかと思った。この戦場で最も悲惨で人間性を無視したのは、戦車への肉薄
攻撃であった。
 三月八日、海軍側の総攻撃で道に迷い、西戦車連隊の本部壕に紛れ込んでしまった。
その時、西連隊長から総攻撃を中止しろとの栗林兵団長から命令が下ったと知らされた。この説得で航空隊の兵二百名程合流し戦車隊の指揮に入った。
 西連隊長(中佐)はロスアンゼルスのオリンピックの大会で馬術障害の金メダルを取った西竹一中佐。私はその後、西中佐が自決する寸前まで行動を共にした。
 この戦場で最も非人間的で悲惨であったのは、M四戦車に対する肉薄攻撃であった。明日、戦車が攻撃して来ると予想される地点に三、四名一組として、五、六組毎夜出撃した。
明け方四時頃までに指定地に着き、その付近に散乱している友軍の戦死者七、八名をかき集めて、戦死者の腹を裂き、臓物を
取出し、自分の上衣のボタンをはずして胸のあたりに押し込み、またズボンの破れた部分から押し込んだ。
死体群の中に入ってあたかも自分が戦死者のように偽装した。
死者のギョロッとむき出した目の視線が鋭い矢になって皮膚を貫き、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。
その矢は幾千、幾万本にも感じられた。私は歯をくいしばってこの非人的で残忍な行動の汚辱感と戦いながら冷静さを失うまいと必死だった。段々と意識が混濁して生きているのか死んでいるのかわからなくなった。
 ふと首筋や顔を這い廻るウジ虫で我に返り、臓物を取り出された戦死者の身が明日の我が身か、戦死してもまだ死体となって戦闘を続けなければならぬとは、あぁ! これが戦場かと心の中で呪った。作戦自体末期的兆候だ。
 
posted by サゲ at 23:36| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(9)

hibiya_09.jpg

戦場体験証言(9)
  井口 光雄 さん 
陸軍/1943(昭和18)年12月 学徒召集/ルソン島/歩兵 

ルソン島 行き倒れた水牛の生き血に命を救われる

 
 「米軍ルソン島上陸」の報に、軍の主力は北部ルソンへ移動を開始した。マニラ近郊で陣地構築に従事していた教育隊も、四百キロの道程を十日間で北上するのです。食糧も車輌もなく、夕方出発して夜通し歩き、明け方到着したところで現地民の家へ押入り、田畑を荒らして食べ、そのまま熟睡するのです。
 要領のよい元気者はうまくやるのですが、私などは食べ物が見つからず絶えず飢えており、五日目には宿営地に着いた朝、ついに道端に倒れ、自決しようとしたが、手榴弾は発火させる力も残っていませんでした。
六十キロもある機関銃を背負わされてきた水牛も、酷使に耐えられず、私の近くでバタリと倒れました。即死です。
すると、誰の知恵か、逃げ遅れた現地民を連れて来て、「水牛の頭をやるから解体しろ」と命じたのです。
彼らはまず馬穴をあてがって頚を切り、血液を抜き取りました。お碗に血を掬ってかたわらに倒れていた私に飲めと言うのです。むっとする血潮など飲めるはずもないのに、なぜか無意識に飲み干すとまた注いでくれます。
飯盒を取ってこれにも一杯つめてくれました。
夕方、目が覚めると何となく体が軽い。飯盒を開けてチーズ状になった血液を食べました。
もちろん、あの水牛の肉も仲間が分けてくれ、元気を取戻して目的地へ到着しました。
しかし、この行軍で十数人の仲間が死にました。
私は神の心を持つ現地人に救われたのです。
 二月末、教育隊を卒業して、米軍上陸以来、激戦を続ける旭兵団に配属され、直ちに機関銃小隊長として米軍と銃砲撃戦に突入しました。
このルートからの突進が難しいとみた米軍は、他のルートに迂回、我々もまたその前面に立ちはだかり、戦車を連ねて来る米軍に二度三度と挑みました。
多大なる犠牲をはらいながら、ついに重要拠点バギオ撤退の命が下りました。
我が小隊も半数以上の損害を出して撤退の途中、行き会った曹長が、「赤ん坊を背負った女が山から降りて来て、チラッと我々を見て行った。
これは危ないと、山の反対側へ廻ったら案の定、元の場所がバンバン砲撃された」と話して行きました。
隊長が女を殺させなかったのが不満のようでした。
でも、日本軍は食糧、薬品から兵器さえ補給せず、兵隊だけ七十万人近く送り込みました。
そのフィリピンは食料の四割を輸入に頼っていたのです。
戦争は国土を荒廃させ、人心を荒ませます。
負け戦は悲惨なもの。勝っても碌な事はない。
米国は朝鮮、ベトナム、イラクから今日まで若者を死なせ続けています。
戦争は地獄です。
 


 

Due to the American troops’ landing on the Luzon Island, the Japanese army was forced to move to the north of the island.  We had to march 400km in 10days without any food or vehicles.  One day, after walking all night long, we broke into a house of native people, ate their food, trashed their fields, and slept there.
But with very little food, we were constantly starving.  On the fifth day, I collapsed on the street and decided to commit suicide with a hand grenade; however, even the grenade had no power to explode…
Then, a water buffalo that had been carrying 60kg of weapons died in front of me.  So, we ordered a native person to dismantle the buffalo. He cut its throat, withdrew blood, and gave the blood to me.
When I woke up on the next day, I found myself feeling much better.  I ate buffalo meat and the jelled blood again which kept me going.  More than 10 people had died during this march but I survived, thanks to the sacred native person. 

In the end of February, I was assigned as a platoon leader of the Asahi Corps which was severely fighting with Americans.  The fight against fully armed American troops took a heavy toll of lives…there were less than half soldiers left in my platoon.  And finally, we were ordered to withdraw
Baguio, a strategic foothold. 

During the evacuation, we met one sergeant.  He told us about a native woman with a baby who had reported Americans about a location of the Japanese troops.  The sergeant was upset because his commander didn’t kill her….
 

Back then, the Philippines had relied 40% of food on import, however, Japanese army sent about 700,000 troops to the Philippines without food, medicines, or even weapons.  
 

War causes devastation of countries and desolation of the spirits.
There is no win or lose in war.  After WWII, the United States has been involved in wars of Korea, Vietnam, and Iraq and many precious lives have passed away…  Remember, WAR IS HELL.
posted by サゲ at 23:28| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い戦場体験証言(8)

hibiya_08.jpg

戦場体験証言(8)
  島田 殖壬 さん 
陸軍/1944(昭和19)年3月20日 志願/歩兵/レイテ島 

レイテ島 泥田、こんな惨めな死に方はしたくないと言いながら皆死んでいった

 
 私は昭和十九年三月二十日、現役志願兵として、当時十八歳で東部六部隊に入隊し、十日余りで満州国孫呉の歩兵一連隊で教育を受け、一期が終わる七月に第一師団動員令のもと、南方行きとなりました。
当時、行き先はまったくわからず、中国・上海から船に乗り、南下し、フィリピン・ラボックで原口大隊は上陸。
マニラを目指し、私の小隊は船でマニラ港に十月下旬に着き、上陸しました。
その頃、米軍がレイテ島に上陸して来て、守備隊の十六師団は全滅したそうです。 
 十月三十一日、第一師団は決戦師団としてレイテ島に急ぎました。当時、私たち兵隊は、実戦経験がない現役の兵ばかりでしたから、船上でレイテ島がどんな島かもわからず、一週間もすればまたマニラに帰って来られると気楽に話していました。
 十一月一日、オルモック港に上陸。三日進軍開始。昼ころ、P38戦闘機の空襲、機銃掃射で私は右肩を負傷。戦友からは不運な兵と言われながら行軍し、部隊がピナ山に登るとき、麓のロノイという部落に一人残され、小隊全員の背嚢を管理しているよう命令され、心細い限りです。
リモン峠方面の戦闘が激しくなり、歩一は下山を命ぜられ山から帰って来ましたが、また残され、後に私が前線に行くころは、戦場は死骸ばかりの有様。
死体は蒸し暑さのため、一週間もすると白骨化してしまいます。
後日、師団の土居参謀が「砲弾と肉弾との戦いでは、兵がいくらいても勝てる訳がない」と言うほど、砲弾が激しく落下してきます。
 私と増田(満州以来の戦友)が斥候に出たとき、道路向こうに米兵が上半身裸で作業をしている。距離は二十メートルくらい。二人で目配せして銃で射ち、当たったので大騒ぎとなり、反撃され増田は頭に一発。即死し、私は這って密林に飛び込み、走りました。
銃弾がバシバシと体を掠めていき、やっと小隊に戻り報告。明日はこちらに来ると思っていました。
その日の夕方、ガサガサと音がするので木の影から見ると、米兵の斥候が五〜六名、目の前に来ていて、目が合った瞬間、カービン銃で撃ってきました。
三八銃では一発。後が間に合わず、手榴弾を一発投げ、伏せていると手榴弾五〜六発が飛んできて、隣にいた兵二名が戦死し、敵は退いていきました。
数日後、師団は西海岸へ転進命令が来て、リモン峠を去り、カンキポットを目指し夜、行軍。食糧はなく、皆ふらふらの状態で、途中倒れて亡くなる兵も多数でる有様。
二千五百余人の歩一の兵も、リモン他で二千二百名くらい戦死。
三百余りが西海岸へ。内七十一名がセブ島へ転進。
その後、セブの戦闘で三十四名戦死。生還者は三十七名でした。
レイテ残留者は全員戦死しました。
 
posted by サゲ at 23:27| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い 戦場体験証言(7)

hibiya_07.jpg

戦場体験証言(7)
  内田 宇吉 さん 
海軍/1944(昭和19)年2月 志願/水兵(水測)/駆逐艦『潮』/レイテ沖戦

 レイテ沖海戦。 駆逐艦が爆発、死体は手、指、顔が白蝋のように

 
 私は群馬の内田です。昭和十九年二月、十九歳の時、志願兵で海軍に入りました。
九月二十日、横須賀久里浜の対潜学校を卒え、同期の工藤君(十五歳)と駆逐艦「潮」に乗艦すべく瀬戸内海に向かい、二十九日に柱島沖で乗艦しました。
 乗組員は三百二十名。二千三百トンの優秀な艦でした。
十月十四日、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻で南方へ向けて出撃する。
そして艦長より訓示。「我が艦隊はフィリピン・レイテ湾に向い、米艦隊と決戦する。この戦いに敗れば、我が国はこの戦争に勝てない」と言われた。
馬公で燃料補給してレイテ湾に向け猛進する。日本艦隊の主力はボルネオより北上する「武蔵」「大和」以下の栗田艦隊と「山城」「扶桑」以下の西村艦隊。
 私たちの志摩艦隊は、この西村艦隊と合同してレイテ湾へ突き進む。それと、内地より空母四隻・戦艦二隻を主力とする小沢艦隊。文字通り、日本艦隊の全力を挙げた戦いだった。
二十四日真夜中、先行した西村艦隊がスリガオ海峡で米艦隊の砲撃を受け、駆逐艦一隻を残し全滅。
 真っ暗な前方二万メートルで「山城」と「扶桑」が真っ赤な火を吹きあげて燃えている。この戦いで、西村艦隊の戦死者は六千名以上と思われる。
また、この戦いで軽巡「阿武隈」が被弾し、九ノットで避退した。
「潮」は「阿武隈」を護衛して帰る途中、B24二十機に襲われた。「阿武隈」は爆弾数発が命中、大火災で沈没。乗組員七百五十名中三百名余りを救助してマニラへ。
 十月三十一日、陸軍・玉兵団を満載した輸送船四隻を護衛してレイテ・オルモック湾へ。兵員弾薬の揚陸中、敵大型機が襲ってきた。
至近弾で「潮」の魚雷頭部へ弾片が命中、燃え出した。急ぎ、これを投げ捨てて無事。
 十一月五日、マニラ湾空襲。姉妹艦「曙」が被弾。戦死傷者多数。
 十一月八日、陸軍・泉兵団をオルモックへ護送。またも大混戦。私は中部機銃の弾込めの応援。頭上に敵機の居ない時だけ気持ちが少し安らぐ。
この時、三千メートルくらい向こうにいた輸送船にB25が三機襲いかかった。マストに触れんばかりの低空で爆撃。水煙の消えたとき船は見えず。轟沈だ。この船にも陸兵二千名は乗船していたであろう。
 十一月十三日、マニラ湾空襲。湾内に二十隻くらいの軍艦、商船がいた。上空は敵機のみ。八時半頃、右上空より襲われ、右舷二、三メートルに爆弾が海底で爆発。海水が滝のよう。下から猛烈な蒸気で暑い。午後四時頃まで敵機は去らず。
夕刻、空襲も終わり、機関科二十三名の遺体をあげる。
なんと遺体の手、指、顔は小さく細く、白蝋のようだ。高温高圧の蒸気に二、三分吹かれると人体はこのようになってしまうのか。
以後、「潮」は片舷航海だった。この夜、マニラ出発。シンガポールで応急修理し、昭和二十年一月十四日、日本へ帰る。
 戦後の記録によると、一番多く使われる級(クラス)の駆逐艦が日本に百隻あり、終戦時に残っていたのは三隻のみで90隻以上が沈没した。
「潮」の戦死者は四十三名だった。
 最後に一言。戦争はその勝敗の如何を問わず、人類最大の愚行なり。 
posted by サゲ at 23:19| 戦場体験 Witnesses of war(interview logs) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。